vol.7(2006年10月24日更新)


 


先端に黒いアゲハ蝶が留まったピンク色の鮮やかな帽子に真っ赤なニットキャミソール、黒いレースの上着という格好で、にこやかに登場した元谷芙美子さん。東京・赤坂見附の本社ビル屋上に輝く自社看板のイメージ通りだったが、インタビューを始めてみるとその印象はずいぶん違う。型破りで破天荒かと思いきや、実はとても聡明な人だとすぐにわかった。

アパグループのメイン事業は、マンション開発を軸にしたディベロッパー。ホテル事業は全体の売上の4分の1程度である。アパホテルは現在、全国に設計中のものも含め57棟、1万5000室以上を擁する一大ホテルチェーン。その取締役社長である彼女が一躍有名になったのは、1994年、社長就任直後のことだ。「私が社長です」のコピーとともに、派手な帽子に花柄のスーツをまとって微笑む彼女の顔が、新聞を開けば一面広告に、電車に乗れば中吊り広告にまでお目見えし、そのインパクトたるや大変なものだった。おかげで本社には電話や手紙が殺到。ほとんどが「やめてくれ」という内容の抗議だった。

でも、元谷さんはまったくめげなかった。

「狙い通りだな。来たな、来たなって嬉しかった。だって、それだけ注目されたってことでしょ」

つまり、「何だ、あの広告は!」とヒンシュクを買えば買うほど、コストをかけずに会社の知名度をアップできるというわけだ。したたかな確信犯である。

手紙で苦情を寄せた人には、「おかげさまで頑張ってます」とお礼の手紙を書き、ホテルの無料宿泊券を同封した。この戦略を練ったのは、元谷さんの夫でアパグループ代表の元谷外志雄氏。彼は当時をこう振り返る。

「外国では一流企業のトップは表に顔を出している。知名度を上げるとともに、顔を見せることでトップとしての責任を明確にしようという目的もあったんですよ」

賑やかな服装の妻の傍らで、黒いマオカラーのジャケットに身を包んだ外志雄氏は、少しコワモテの顔を綻ばせてフッフと笑う。その代表を、妻の社長は尊敬の眼差しで見つめる。

「タメ口?とんでもない。外では常に代表とお呼びしています。家の中でもきちんとお話していますよ。ただ、さすがに家では、『パパ』って呼んでますけど(笑)」

常々、「私より幸せな人はいないんじゃないかなぁ」、「天真爛漫でメチャ前向きな性格」と自己分析する元谷さんの、そのうらやましい性格は生い立ちに関係がある。

元谷さんは1947年、北陸は福井の生まれ。ちょうど戦後の食料難の真っ只中で、ろくに食べるものもなかった。

「生まれたときは『のしイカ』みたいやったらしいです。虚弱児で、親は育つ見込みはないと思って、棺桶を用意していたとか(笑)。それがここまで生き延びられただけでもラッキーですよ」

1歳のときに起こった福井大地震でも命拾いをした。マグニチュード7・1の凄まじい揺れで元谷さんの生家も倒壊。しかし奇跡的に、寝ていた彼女の上に観音開きになった仏壇が落ちてきて、それに守られる形で助かった。物心つく前のこうした体験こそ、自らの強運を信じて疑わない所以である。






1970年、河口湖にて。新婚時代に車で中部地方を一周するキャンプ旅行へ
やがて元谷さんは県下一の進学高校に入学し、教師を目指すようになったが、卒業が間近に迫った頃に父親が病気で倒れ、クラスでただ1人、受験を断念。福井信用金庫に就職することになった。

「私、めげない性格なんです。きっと私には、もっと別の良い人生があると思っていました」

元谷さんのこの予感は、ズバリ当たった。確かに受験して大学に進んでいたら、生涯のベストパートナーとなる外志雄氏とは出会っていなかったのだ。

外志雄氏は、福井県の隣の石川県の出身。県内で有名な進学高校卒業後、小松信用金庫に勤め、組合書記長として活躍していたが、この組合活動を通じて元谷さんと出会った。

「サングラスに黒のスーツで、最初は『何や、この人?』って思ったけど、そのうちすごい人なんやとわかってきたんです」

元谷さんは夫の外志雄氏の第一印象を笑いながら話す。実際、外志雄氏はかなりのやり手だった。

1970年、外志雄氏26歳、元谷さん22歳で結婚。翌年、外志雄氏は信用金庫を辞め、注文住宅販売会社『信金開発株式会社』(現・アパ株式会社)を創業した。銀行員時代に外志雄氏自身が作った長期住宅ローン制度を武器に、地元石川県で営業を始めた。





1988年9月、オーストラリアへ社員海外研修旅行
1978年秋の家族旅行
当初、外志雄氏は妻が戦力になるとは思ってもみなかった。外志雄氏が会社を起こしたとき、元谷さんはちょうど妊娠中。大きなお腹を抱えて会社の経理や事務を取り仕切り、長男が生まれてからは、見よう見まねで営業を始めた。気がついたときには、同社で営業成績トップの座に躍り出た。

「私、三度のご飯より営業が好きなんです。お客様が『家に帰って相談する』とおっしゃれば、すかさず『夜にお宅にお伺いしましょうか』と言うくらい、かなり積極的やったと思います」

芸者置屋に営業に行き、女将が座敷を務めている間、カラオケを歌いまくり、女将が帰ってくると深夜に物件を案内。明け方5時に契約を取った、なんてエピソードもあるのだとか。

プライベートでは、長男を出産して落ち着いた頃に次男を出産した。子育てに家事にと忙しかったはずだが、元谷さんは仕事との両立を苦に思ったことは一度もないという。

「私は仕事が楽しくて、ワクワクドキドキで行きたくて行きたくて仕方がなかった。まあ結局は人間が好きなんやろうね」

夕方、家に帰って夕食を作って子供と一緒に食べて、夜にまた出勤ということも多かったが、子供を寂しがらせないよう、手紙を書いたり、出がけに抱きしめてスキンシップを絶やさないように心がけた。その長男と次男はいま、大きく成長したアパグループの専務と常務を務める。






テレビCM撮影時に
バブル崩壊の危機も、いわゆる“逆張り”の戦略で乗り切った。

というのも、バブル末期に他社が不動産を買い漁っていたとき、バブル崩壊の予兆を察知した同社は売りに転じ、被害を最小限に食い止めた。そして、バブルが崩壊し、他社が一斉に売却を始めて地価が下がると、その好機を逃さず買いにシフト、事業を一気に拡大したというわけである。

ホテル部門でも、バブル崩壊後、次々に採算の取れなくなったシティホテルを買収、部屋数を増やしたり、大浴殿、露天風呂等の温浴施設を付加してリゾート色の強いホテルに生まれ変わらせた。

「お前、社長やれ。ホテルでお客をもてなすのは女将や」

1994年、夫の鶴の一声でホテル部門の社長に就任した元谷さん。ホテルの顔である女性支配人にエルメスの高価なスカーフを支給したり、客室の枕元に折り鶴を置いたり、女性らしい細やかなサービスが功を奏し、売上は堅調に伸びていった。

挫折知らずの究極の勝ち組となった外志雄、芙美子夫妻はいま、西麻布の大豪邸に住む。だが、元谷さんはいまでも、料理、掃除、洗濯は人任せにしない。トレードマークの帽子を脱げば、普通の主婦に戻るのだ。

しかし、これだけで驚いてはいけない。元谷さんは、2001年には法政大学人間環境学部に入学、優秀な成績で卒業。早稲田大学大学院の公共経営研究科に進み、この春に修士号を取得。先日、博士課程の試験に合格し、進学することが決まった。

社長業に主婦に大学院生にと八面六臂の活躍をする彼女だが、「論文を書いたり、確かに大変ですよ。でも基本的に勉強が好きなんやね」と、これまた涼しい顔でさらりと言う。成功と幸せのオーラに包まれた元谷さん。若い女性から“常勝”の秘訣をよく聞かれる。そういうとき、彼女はいつもこう答える。

「自らの価値観をきちんと確立していくこと」――自分の価値観に照らして、納得して自分らしく生きているかどうか。それを問い続けてきた彼女にとって、それこそが永久不変の真理なのだ。
働くビタミン 時代を創った女性たち

vol.7 (2006年10月24日更新)

元谷芙美子

全国57ホテルチェーンの広告塔を務める女性社長


FumikoMotoya
アパホテル株式会社取締役社長

「私が社長です」のド派手広告で
アパホテルの知名度をアップ

先端に黒いアゲハ蝶が留まったピンク色の鮮やかな帽子に真っ赤なニットキャミソール、黒いレースの上着という格好で、にこやかに登場した元谷芙美子さん。東京・赤坂見附の本社ビル屋上に輝く自社看板のイメージ通りだったが、インタビューを始めてみるとその印象はずいぶん違う。型破りで破天荒かと思いきや、実はとても聡明な人だとすぐにわかった。

アパグループのメイン事業は、マンション開発を軸にしたディベロッパー。ホテル事業は全体の売上の4分の1程度である。アパホテルは現在、全国に設計中のものも含め57棟、1万5000室以上を擁する一大ホテルチェーン。その取締役社長である彼女が一躍有名になったのは、1994年、社長就任直後のことだ。「私が社長です」のコピーとともに、派手な帽子に花柄のスーツをまとって微笑む彼女の顔が、新聞を開けば一面広告に、電車に乗れば中吊り広告にまでお目見えし、そのインパクトたるや大変なものだった。おかげで本社には電話や手紙が殺到。ほとんどが「やめてくれ」という内容の抗議だった。

でも、元谷さんはまったくめげなかった。

「狙い通りだな。来たな、来たなって嬉しかった。だって、それだけ注目されたってことでしょ」

つまり、「何だ、あの広告は!」とヒンシュクを買えば買うほど、コストをかけずに会社の知名度をアップできるというわけだ。したたかな確信犯である。

手紙で苦情を寄せた人には、「おかげさまで頑張ってます」とお礼の手紙を書き、ホテルの無料宿泊券を同封した。この戦略を練ったのは、元谷さんの夫でアパグループ代表の元谷外志雄氏。彼は当時をこう振り返る。

「外国では一流企業のトップは表に顔を出している。知名度を上げるとともに、顔を見せることでトップとしての責任を明確にしようという目的もあったんですよ」

賑やかな服装の妻の傍らで、黒いマオカラーのジャケットに身を包んだ外志雄氏は、少しコワモテの顔を綻ばせてフッフと笑う。その代表を、妻の社長は尊敬の眼差しで見つめる。

「タメ口?とんでもない。外では常に代表とお呼びしています。家の中でもきちんとお話していますよ。ただ、さすがに家では、『パパ』って呼んでますけど(笑)」

常々、「私より幸せな人はいないんじゃないかなぁ」、「天真爛漫でメチャ前向きな性格」と自己分析する元谷さんの、そのうらやましい性格は生い立ちに関係がある。

元谷さんは1947年、北陸は福井の生まれ。ちょうど戦後の食料難の真っ只中で、ろくに食べるものもなかった。

「生まれたときは『のしイカ』みたいやったらしいです。虚弱児で、親は育つ見込みはないと思って、棺桶を用意していたとか(笑)。それがここまで生き延びられただけでもラッキーですよ」

1歳のときに起こった福井大地震でも命拾いをした。マグニチュード7・1の凄まじい揺れで元谷さんの生家も倒壊。しかし奇跡的に、寝ていた彼女の上に観音開きになった仏壇が落ちてきて、それに守られる形で助かった。物心つく前のこうした体験こそ、自らの強運を信じて疑わない所以である。

turning
point 1
大学受験を断念するも
めげることなく就職

やがて元谷さんは県下一の進学高校に入学し、教師を目指すようになったが、卒業が間近に迫った頃に父親が病気で倒れ、クラスでただ1人、受験を断念。福井信用金庫に就職することになった。

「私、めげない性格なんです。きっと私には、もっと別の良い人生があると思っていました」

元谷さんのこの予感は、ズバリ当たった。確かに受験して大学に進んでいたら、生涯のベストパートナーとなる外志雄氏とは出会っていなかったのだ。

外志雄氏は、福井県の隣の石川県の出身。県内で有名な進学高校卒業後、小松信用金庫に勤め、組合書記長として活躍していたが、この組合活動を通じて元谷さんと出会った。

「サングラスに黒のスーツで、最初は『何や、この人?』って思ったけど、そのうちすごい人なんやとわかってきたんです」

元谷さんは夫の外志雄氏の第一印象を笑いながら話す。実際、外志雄氏はかなりのやり手だった。

1970年、外志雄氏26歳、元谷さん22歳で結婚。翌年、外志雄氏は信用金庫を辞め、注文住宅販売会社『信金開発株式会社』(現・アパ株式会社)を創業した。銀行員時代に外志雄氏自身が作った長期住宅ローン制度を武器に、地元石川県で営業を始めた。

写真1
1970年、河口湖にて。新婚時代に車で中部地方を一周するキャンプ旅行へ

turning
point 2
夫が起業した会社で
営業としての才能開花

当初、外志雄氏は妻が戦力になるとは思ってもみなかった。外志雄氏が会社を起こしたとき、元谷さんはちょうど妊娠中。大きなお腹を抱えて会社の経理や事務を取り仕切り、長男が生まれてからは、見よう見まねで営業を始めた。気がついたときには、同社で営業成績トップの座に躍り出た。

「私、三度のご飯より営業が好きなんです。お客様が『家に帰って相談する』とおっしゃれば、すかさず『夜にお宅にお伺いしましょうか』と言うくらい、かなり積極的やったと思います」

芸者置屋に営業に行き、女将が座敷を務めている間、カラオケを歌いまくり、女将が帰ってくると深夜に物件を案内。明け方5時に契約を取った、なんてエピソードもあるのだとか。

プライベートでは、長男を出産して落ち着いた頃に次男を出産した。子育てに家事にと忙しかったはずだが、元谷さんは仕事との両立を苦に思ったことは一度もないという。

「私は仕事が楽しくて、ワクワクドキドキで行きたくて行きたくて仕方がなかった。まあ結局は人間が好きなんやろうね」

夕方、家に帰って夕食を作って子供と一緒に食べて、夜にまた出勤ということも多かったが、子供を寂しがらせないよう、手紙を書いたり、出がけに抱きしめてスキンシップを絶やさないように心がけた。その長男と次男はいま、大きく成長したアパグループの専務と常務を務める。

写真2
1988年9月、オーストラリアへ社員海外研修旅行
写真3
1978年秋の家族旅行

turning
point 3
アパホテル社長就任
堅実な経営方針貫く

バブル崩壊の危機も、いわゆる“逆張り”の戦略で乗り切った。

というのも、バブル末期に他社が不動産を買い漁っていたとき、バブル崩壊の予兆を察知した同社は売りに転じ、被害を最小限に食い止めた。そして、バブルが崩壊し、他社が一斉に売却を始めて地価が下がると、その好機を逃さず買いにシフト、事業を一気に拡大したというわけである。

ホテル部門でも、バブル崩壊後、次々に採算の取れなくなったシティホテルを買収、部屋数を増やしたり、大浴殿、露天風呂等の温浴施設を付加してリゾート色の強いホテルに生まれ変わらせた。

「お前、社長やれ。ホテルでお客をもてなすのは女将や」

1994年、夫の鶴の一声でホテル部門の社長に就任した元谷さん。ホテルの顔である女性支配人にエルメスの高価なスカーフを支給したり、客室の枕元に折り鶴を置いたり、女性らしい細やかなサービスが功を奏し、売上は堅調に伸びていった。

挫折知らずの究極の勝ち組となった外志雄、芙美子夫妻はいま、西麻布の大豪邸に住む。だが、元谷さんはいまでも、料理、掃除、洗濯は人任せにしない。トレードマークの帽子を脱げば、普通の主婦に戻るのだ。

しかし、これだけで驚いてはいけない。元谷さんは、2001年には法政大学人間環境学部に入学、優秀な成績で卒業。早稲田大学大学院の公共経営研究科に進み、この春に修士号を取得。先日、博士課程の試験に合格し、進学することが決まった。

社長業に主婦に大学院生にと八面六臂の活躍をする彼女だが、「論文を書いたり、確かに大変ですよ。でも基本的に勉強が好きなんやね」と、これまた涼しい顔でさらりと言う。成功と幸せのオーラに包まれた元谷さん。若い女性から“常勝”の秘訣をよく聞かれる。そういうとき、彼女はいつもこう答える。

「自らの価値観をきちんと確立していくこと」――自分の価値観に照らして、納得して自分らしく生きているかどうか。それを問い続けてきた彼女にとって、それこそが永久不変の真理なのだ。

写真4
テレビCM撮影時に

BACK NUMBER