
『舟を編む』原作者・三浦しをん「タイパ至上主義な職場」にモヤる女性の盲点
「その仕事、もっとタイパ良くできない?」
生成AIをはじめとしたツールの進化により、効率化できる業務が増えてきているのはいいけれど、職場で日々飛び交う「効率化」のプレッシャーに息苦しさを感じる人もいるかもしれない。
そんな“タイパ至上主義”の時代に一石を投じるのが、現在NHKで放送中のドラマ『舟を編む』だ。

本作で描かれているのは、一冊の辞書を作るために10年以上もの歳月を捧げる編集者たちの姿。
語釈(言葉の意味の説明文)や挿絵一つ一つに対して頭を悩ませ、皆で議論を重ねながら、じっくり辞書を作り上げていく編集部員たちの姿は、「効率性」を追い求める時代を生きる私たちに、「非効率が生む価値」を問いかけてくる。
今後さらに加速していくであろう「タイパ時代」と、私たちはどう向き合っていけばいいのか。『舟を編む』原作者の三浦しをんさんと共に考えていこう。

小説家
三浦しをんさん
1976年、東京都生まれ。2000年、大学在学中に執筆した『格闘する者に○(まる)』(草思社)(新潮社)でデビュー。06年、『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋)で直木三十五賞を、12年『舟を編む』(光文社)で本屋大賞を受賞。『舟を編む』は13年に実写映画化、16年にはアニメ化もされ、幅広い層から支持を得た。その他、小説に『風が強く吹いている』(新潮社)、『仏果を得ず』(双葉社)、『光』(集英社)、『墨のゆらめき』(新潮社)、『ゆびさきに魔法』(文藝春秋)など、エッセイに『あやつられ文楽鑑賞』(ポプラ社・双葉文庫)、『好きになってしまいました。』(大和書房)、『しんがりで寝ていますのっけから失礼します』(集英社)など
非効率なものが、ビジネスを好転させることもある
三浦さんが『舟を編む』を出版されてから14年が経ちますが、当時「長い年月をかけて一つの書物を作り上げていく」物語を描こうと思ったのはなぜなのでしょうか。
私はもともと、「効率」の対極にあるような職業や人に惹かれるタイプで。
例えば林業であったり、文楽(人形浄瑠璃)であったり。林業は、木を植えてから百年くらい経たないと売り物にならないので、効率的な産業とは真逆ですよね。
文楽も、一体の人形を三人で動かさなければならず、とても非効率な芸能ですが、そこに魅力が詰まっています。
『舟を編む』で描かれている辞書作りの仕事も「非効率」に魅力が詰まっている点は同じですね。
辞書は、一冊作り上げるまでに膨大な時間と手間がかかります。さらに言うと、衣食住に絶対に必要なものでもありません。
でも、人が幸せに豊かに暮らすためには、生活必需品だけが揃っていてもだめで。
心まで満たすためには、映画や漫画、小説といった文化に触れることが必要になってきます。「言葉」について考えを巡らせることは、こういった文化を支えていくことにもつながりますよね。
そんな「手間がかかるけれど意義のある仕事」を一生懸命やっている人たちの姿を描きたくて、辞書編集者の話を書きました。
たしかに、豊かに生きていくために、辞書のような存在は大切ですね。
ただ、原作でもドラマでも、辞書作りは「金食い虫」と言われて人員削減される様子が描かれているように、コスパもタイパも悪い事業に難色を示す会社は少なくないように思います。
そうですね。ただ、作るのに時間がかかって、すぐに利益に繋がらないものがビジネスにいい影響を与えることもあると思うんです。
というと?
例えば、ドラマの中で「恋愛」という言葉の語釈についてみんなで話し合うシーンがあります。
池田エライザさん演じる主人公・みどりの「男女間のものに限定していいのか?」という問いを発端に、たった一つの言葉の語釈についてみんなで何回も議論を重ねますが、それでも「まだこの言葉は観察が必要だ。よく世の中を見なければいけない」ということになり、最終的に語釈が決まるまでは、そこからまた二、三年かかっています。

これって、一見すごくむだなことに時間を使ってるように見えるかもしれないけれど、この工程が血の通った唯一無二の語釈を作り、辞書の個性となり、信頼される品物になり、商売にもいい影響を及ぼすのだと思います。
たしかにじっくり時間をかけて、長く消費者から愛されるモノを作れば、最終的には利益につながりますね。
一方で、消費者もコスパ・タイパのいいものを求めるようになっているようにも感じます。
国によっては電子書籍の需要が紙を抜いたという話も聞きますし、よりコスパ・タイパのいいものを選ぶ人は増えていると思います。
でもこの傾向自体は、いいことだなと思っていて。紙の辞書では文字が小さいとか重いとか、使いにくい面もたしかにあるので、時と場合に応じて使い勝手のいい方を選べるようになるのはいいですよね。
選択肢が多くなるのはいいですね。今後電子書籍がさらに普及しても、紙の辞書は必要とされ続けると思いますか?
まだまだ必要だと思います。もし紙の辞書をなくして全て電子化してしまうと逆に「非効率」に陥ると思うので。
紙の辞書って紙面に制限があるので、簡潔に言葉の意味を知ることができるんですよね。
Webのように文字数が無制限だと語釈が長くなり、すぐに要点を理解するのが難しくなってしまいます。
長年紙の辞書づくりで蓄積してきた知恵や技術は継承していって、紙とWebのいいとこどりをしていけるといいですね。
経営層と現場が対立した時は、いいモノを作るチャンス
三浦さんが『舟を編む』を出版してから現在までの間に、技術も進化して、良くも悪くもコスパ・タイパよく利益を出しやすい環境になってきています。
野田洋次郎さん演じる、辞書編集部員の馬締(まじめ)のように、じっくり丁寧に仕事に取り組んできた人もタイパを求められるようになり、モヤモヤしてしまうことがありそうです。
効率化する部分と、時間をかけるべき部分の線引きができるといいですよね。
小説家の間でも生活面でAIを活用する人は増えていて、便利!と肯定的に受け入れる人が多いです。
私はAIは使っていませんが、取材の文字起こしのツールは使っていますし、「ここは効率化しても仕事の本質に影響ないよね」というところは効率化しています。
省ける手間は省くことで、より本質的な仕事に時間を費やしやすくなるという面はあるかもしれませんね。
それはあると思います。私も効率化して生まれた時間でじっくり原稿を書いたり、文章を整えたりすることに時間を割けるようになった実感があります。
ドラマでも、一話でみどりが「辞書を一冊作るのに10年以上もかかるなんて、むだな工程があるんじゃないんですか?」と話す場面がありましたが、効率化すべきことと時間をかけるべきことの線引きはどう見極めるのがいいと思いますか?

「ここは手を抜いてもクオリティーに影響ないな」というところはうまく手を抜いていいと思います。
どの仕事でも、みどりの言うようにむだな工程って絶対にあると思うので、省けるところはそれまでの慣習にとらわれずに効率化していけるといいですよね。
現場目線だと「これは時間を割くべきことだ」と感じることでも、会社からすると「そんなことに時間を使ってるんじゃないよ」と思うこともあると思います。
例えば、みどりや馬締たちが一つの語釈についてじっくり話し合っているのも、会社から見ると非効率に見えるかもしれないなと。
ドラマでも堤真一さん演じる五十嵐社長が効率化のために辞書の電子化を主張していますよね。
そうですね。ただ、五十嵐社長の言うことも「その通りだな」と感じる部分もあって。
会社を経営する立場の人にも理想があり、現場でモノづくりをする人たちにも理想がある。それぞれの理想が食い違っているのだとしたら、お互いの良いところをうまく組み合わせるしかないんだと思います。
編集部のメンバーたちも、自分たちの仕事の意義を感情的にぶつけるのではなく、社長が目指す未来とチューニングしながら交渉していましたね。

決して妥協するのではなくて、相手の意見も受け止めた上で、「新たな案はどういうものがあるだろう」と考えたのだと思うんですよね。
ドラマの中で編集部員たちは、社長とのぶつかり合いからまた良いアイデアが出ていますし、現場の人たちの理想だけが正解だと思ってしまうと、案外視野が狭まって、思考が硬直してしまうリスクもあります。
そう考えると、対立する意見や、自分とは異なる理想を掲げる人が出現した時って、実はより良いモノやサービスを生み出すチャンスなのかもしれません。
つい「現場のことを何も分かってない」なんて不満に思ってしまいがちだけれど、理解しようと歩み寄ってみることで、今よりさらにいい案が生まれる可能性があると。
「なぜこの人はこういう理想を掲げているのだろう。こういう考えを持っているんだろう」というのを考えた上で話し合うしかないと思います。
そして、なぜその理想を掲げているのかが分かったら、両者の理想をうまく合体させたり、変形させたりして、新しい案が生まれるといいですよね。
意外と目指すゴールは一緒だったりするかもしれませんしね。
同じ会社だったり同じ部署だったりするんだから、真逆の方向を見ていることはないですよね、きっと。
歩み寄ってみた結果、どうしても理想がかみ合わなかったら、最終手段として部署異動や転職という選択もアリだと思います。
加速する効率化の波を恐れなくてもいい
最近はAIを使って小説を執筆している方もいらっしゃいますが、そういった例を受けて三浦さんもタイパを求められることはありますか?
今のところはありません。小説業界だけでなく、創作系の業界はどこもそうだと思うのですが、効率ばかりではどうにもならないことを関係者の皆さんが分かっていらっしゃるからじゃないでしょうか。
時間をかけるべき部分と効率化すべき部分のすみわけにおいて、関係者のみなさんの目線が合ってるんですね。
そうですね。確かにAIについては小説家界隈でもよく話に出ていて、「三浦しをんの文体で、何か適当に面白い話をよろしく」って言ったら、その通りに書いてくれるという話もありますよね。私の周りでも、「便利!AIに書いてもらおうよ!」なんて冗談めかして言う人も結構多いんですよ。
そうなると廃業の危機だと思うんですが、私はあまり危機感は抱いてなくて。もし「小説家がいらない」世の中になるのなら、違う仕事をすればいいと楽観的に考えています。人間にしかできない仕事は絶対にありますから。
もしかしたら転職せずとも、今就いている仕事の中にも「人間にしかできない部分」は残っているかもしれませんしね。
ツールの進化によって効率化される部分は増えていくと思いますが、どれだけ技術が発達しても、人間にしかできないこと、人間にしか求められないことは絶対にあると思います。
たとえば、人の命に関わる部分は100%機械に委ねるのは難しいですよね。こういった人間の価値が求められる部分を皆で分け持って働いていけば良いのではないでしょうか。
タイパ時代が加速していくと、本質的な仕事まで効率化されてしまったり、仕事自体をAIに奪われてしまったりという恐怖を感じる人も多いかもしれませんが、まだまだ人間が価値を発揮できる仕事はなくならないと。
そう思います。効率化を求める時代の流れを一度受け止めて、ベストなかたちを模索しながら、自分がやるべきことに全力を注いでいくことができれば、自らを求めてくれる場所も自然と見つかってくるのではないでしょうか。
取材・文/光谷麻里(編集部)
作品情報
『舟を編む 〜私、辞書つくります〜』(NHK)毎週火曜夜10時~

【原作】
三浦しをん『舟を編む』
【脚本】
蛭田直美(全話) 塩塚夢(第5話共同執筆)
【音楽】
Face 2 fAKE
【演出】
塚本連平 麻生学 安食大輔
【出演】
池田エライザ 野田洋次郎 矢本悠馬 美村里江 渡辺真起子 前田旺志郎/岩松了 向井理 柴田恭兵 ほか
【制作統括】
高明希(AX-ON) 遠藤理史(NHK) 訓覇圭(NHKエンタープライズ)
【プロデューサー】
岡宅真由美(アバンズゲート) 西紀州(AX-ON)