日本はDV加害者に甘い国「女性たちは自己肯定感という言葉を捨て、わがままに生きましょう」/信田さよ子
日本の大きな課題である男女不平等。それによって、私たちの生活にはどのような影響が生じているのだろう。意外な分野で生じている課題について探ってみよう
ドメスティックバイオレンス(以下、DV)。その被害者の9割が女性であり、背景に男女不平等の問題があることは想像に容易い。
では、DVが起きたあとはどうだろうか。日本は加害者をどのように罰し、被害者にどのような対応をしているのか。
DV防止法の柱は被害者保護と予防の二つ。実は、加害者への罰則はないのです。
耳を疑うような事実を教えてくれたのは、長きにわたりDV問題に向き合ってきた公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さん。
一体なぜ、そんなことが起きてしまっているのだろうか。
かつて妻を殴ることは、暴力と認識されていなかった
2001年に制定されたDV防止法。23年5月の法改正では身体的な暴力に加え、言葉や経済による精神的な暴力もDV被害と認められ、保護命令が適用されるようになった。保護命令期間も6カ月から1年に延長された。
だが、その内容はあくまで「逃げる」「保護する」という被害者に対するもの。加害者の処罰に関する項目はない。
加害者について言及されているのは、「配偶者暴力加害者プログラムに関する調査研究事業」の報告だけです。
DV加害者プログラム実施のための留意事項がかなり具体的に書かれている点は進歩したと言えますが、どうやってDV加害者をプログラムに参加させるかについては何の言及もないまま。
DV防止法制定から22年間、国は資料を集めたり海外へ視察に行ったりしているのに、いまだに公的な実施の見通しはなく、調査と研究ばかりやっています。
振り返れば、01年にDV防止法ができた時は「奇跡」とまで言われたと信田さん。
当時は「殴る=妻へのしつけ」と考える男性が多く、女性も含めて、殴る蹴るが暴力であり、DVだとは認識されていなかったのだという。
私は劇作家・井上ひさしの元妻・西舘好子の手記『表裏井上ひさし協奏曲』(牧野出版)を読んで、本当にびっくりしたんですよ。
締切を間近にした井上ひさしが「妻を殴ると原稿を書く力が湧いてくる」と言うので、編集者たちが「奥さんお願いします、一発殴られてください」と言ってくるんですって。
当時の編集者は日本でもトップクラスの知的階層だったでしょうけど、彼らのジェンダー意識すらその程度だったのです。
国会議員、特に与党自由民主党の多くはおじさんたちですから、「日本の男は妻を殴ったりしない」と大真面目に思っていたんですよ。
骨が折れれば暴力だけど、妻を怒鳴ったり頬をひっぱたいたりしても、それはしつけで、正しいことと思っていたのです。
だから暴力なんかじゃないし、まして保護命令なんかいらないと思っていたのでしょう。
そのような状況にも関わらずDV防止法が制定された背景には、女性たちの存在があった。
例えば過去、女性向けの低用量ピルが承認されるまでに何十年とかかったのに対し、男性向けのバイアグラはたった半年で承認されました。
中高年の男性中心主義的な価値観がはびこる政治の世界で、女性向けの法案を通すのはそれだけ大変なこと。
それでも多くの女性団体がロビー活動をし、当時の女性議員たちが超党派で協力し、女性党首もいましたから、彼女たちが精力的に動いたことでDV防止法は可決されました。だからこそ「奇跡の法律」なのです。
日本の家族観は明治時代からアップデートされていない
そもそも「日本の家族に関する法律はほとんど明治時代のまま」と信田さん。
法学部の先生に聞いたのですが、日本の法律では、家族内で起きたことを犯罪化し、その加害者を処罰することは難しいのだそうです。
DVで妻が怪我をしたら傷害罪、親からの虐待で子どもが死んだら殺人罪に問われますが、DV罪や虐待罪ではないんですね。
なぜなら防止法であって禁止法じゃないからです。
DVの場合は被害者、その多くは妻だが、彼女たちが告訴しなければ夫が罪に問われることはない。
虐待の場合は子どもが親を告発することはできず、児相が子どもを保護するのが唯一できること。
つまり、加害者が「虐待罪」で処罰されることはないんですよ。
夫が妻を殴り殺した事件が最近起きましたが、それをDV殺人としてメディアは報道しません。
虐待事件が起きると「児相はなぜもっと早く保護しないんだ」と叩かれますけど、本来責められるべきは加害者ですよね。おかしな状況だと思います。
戦後に女性の参政権が認められ、1985年に男女雇用機会均等法が成立。最近では女性活躍が推進され、結婚や出産を経ても女性が働き続けるのは当たり前になった。
セクハラやパワハラなどのハラスメントは法律で禁止され、それに伴い職場や社会の価値観も変わりつつある。
それなのに、国の家族観は明治時代からほとんどアップデートされていない。
国際的な批判を受けながら夫婦別姓がなかなか実現しないことも、このいびつさを物語っている。
DV加害者プログラムに公的に言及していないのは、先進国で日本だけ
片や先進国では、DVに関する政策が日本よりはるかに進んでいる。
例えば北米の場合、DVの通報があれば加害者は即逮捕。拘留中にリスクを査定された上でDV専門の裁判所の命令により、DV加害者プログラムを受講することになる。
拒否したり無断で欠席したりすれば、法律違反で再度裁判にかけられる。
裁判所命令で参加が強制されるDV加害者プログラムは、被害者支援の一環として実施される。
彼らが自らの暴力の責任を取ることを目的としており、エビデンスに基づいて構成され、最短でも6カ月は受講し続けなければならない。
信田さんは「先進国でDV加害者プログラムについて公的に言及していないのは、日本だけという現実を知ってもらいたい」と訴える。
今回の報告書ではかなり詳しく加害者プログラムについて言及されました。
遅きに失した感もありますが、私たちが行っている加害者プログラムの実践を内閣府が見学し、報告書作成の参考にしたのです。
前進ではあるものの、私たちはもう18年間やっていますから、「ようやくか」というのが率直なところ。
現在は、私たち以外にも民間のDV加害者プログラムがいくつも存在していますが、内容はどこまで統制が取れているか不明です。
日本が公的に加害者プログラムを始めるまで、一体あと何年かかるのでしょうね。
遅々とした歩みだが、DVをめぐる日本の状況は確実に変わってはいる。
東京都(警視庁管内)では2014年以降、DV通報があった場合かなり積極的に加害者を逮捕するようになっています。拘留期間、警察が彼らにDV関連の本や情報を提供し、加害者プログラムへの参加を促すケースも。
法律上では被害者保護しかできないことになっていますが、埼玉や千葉の一部も含む首都圏がこのような状況であることは付け加えておきます。
DVという言葉は広く認知され、もはや「妻を殴るのはしつけ」と考える人は少数だろう。
「妻に暴力を振るってはいけない」ということ自体は、世の中の共通認識となった。
女性が働くのも当たり前になり、家庭内の家事分担も進んだ。
ドラマでは夫が当然のように家事をやっていたりと、メディアで描かれる男性像にも変化がある。
だが、「なかなかDVは減らない」と信田さん。
「育児の仕方が変」「家事はこうやれば効率的なのに」「自分が注意した通りにやらない」など、家事や育児に関して腹を立てて怒鳴ったり物を投げたり、殴る蹴るの暴力をしたりといった“自己啓発DV”と呼べるような事例が増えています。
家事育児を積極的に分担する男性だからといって、DVと無縁ではないのです。
情報化やグローバル化が進み、社会がダイバーシティを取り込みながらも、男性中心主義や家父長制が深いところで生き残っているのを感じますね。
不同意性交等罪により、パートナーと向き合う重要性はより高まる
さらに信田さんは「男性が主な加害者になる暴力に関して、バックラッシュが起きている」と指摘する。
バックラッシュとは、「反動」や「揺り戻し」を意味する言葉。社会学では社会的弱者に対する平等の推進や地位向上などに対して、反発する動きを指す。
例えば痴漢について、冤罪に関する情報や痴漢にあわないための心得などをよく見かけますが、なぜ痴漢をする人へのメッセージではないのでしょう?
他にも、性暴力を「性依存」と言い換えることによって、暴力性や根底にあるジェンダーの問題が見えにくくなっているのを感じます。
女性自身にも性暴力被害だと思いたくない気持ちがありますから、それが通用しやすくもあるのです。
だが、「これからは男性が試される」と信田さん。
先日、「不同意性交等罪」が可決されました。これにより、同意なき性行為は性暴力となり、処罰の可能性が生まれます。
その分、男性には覚悟が求められるということ。「ノーはイエスだ」と思い込み性行為に及んでいた人にとって、今までが安泰すぎたわけですから、「やっと女性が人間扱いされるようになった」と思います。
親密な関係を築くとき、片方が嫌になることなんていくらだってあります。
例えば二人で出掛ける予定だったけど、当日行きたくなくなった場合にもう一方はどうするか。
そこでの対応によって試されるし、関係性がどう築かれるかが決まっていくでしょう。
性行為も同じ。たとえあとから「同意していなかった」と言われたとしても、相手が悪いわけではなく、二人の関係性に何か問題があったということに他なりません。
これからは相手と向き合い、コミュニケーションを取りながら関係性を構築していくことが今よりもっと重要になる。
そこで求められるのが「男性側のこれまでの常識を変える努力」だ。
結婚相談所の人から聞いたのですが、初対面のときに女性から愛想良く振る舞われると、「自分のことが好きなんだ」と思い込んでしまう男性は非常に多いそうです。
自分が女性からクールに観察されているという発想がないのでしょうか。他者性がないというか、相手が女性になると関係性の捉え方が変になるのは、女性を同じ人間として見ていないことの裏返しにも思えます。
つまり、女性やパートナーにも意志があること、それと向き合うことを学ばなければならないのです。
女性はこれまで一生懸命やってきましたから、今度は男性たちに頑張ってもらう番ですよ。
自分の苦しみや痛みを、人と比べてはいけない
DVと聞いて、自分とは遠い出来事のように感じる人もいるだろう。
だが、その起点はありふれた小さな出来事だと信田さんは話す。
例えば、旅先で夫が機嫌を損ね、「もう帰る」と不機嫌そうに言う。それに反論できず、自分はもっと旅を楽しみたいのに、彼に従って帰る。
こういった出来事はいわば日常に遍在している「力の差=権力」が可視化されたものであり、それらとDVは地続きなのです。
相手が自分を対等に見ているかどうかは、日常の相手の言動をよく観察しましょう。
DV被害者のほぼ全員が「付き合っている時におかしいと思ったことがあった」と言います。
そういう違和感は当たっていることが多いですから、大切にしてほしいですね。
2023年発表のジェンダー・ギャップ指数で、日本は146か国中125位と過去最低を記録した。
男女不平等が日本の姿であり、日常生活における夫婦・パートナー間の力の差とDVが地続きなのであれば、誰もが加害者や被害者となり得る。
だが、社会は急には変わらない。法律や人々の価値観が変わるまで、残念ながらまだまだ時間がかかるだろう。
それならば、せめて自分が被害にあわないためにどうしたらいいのか。信田さんは「わがままになりましょう」とメッセージを送る。
最近はジェンダーやフェミニズムへの意識が高い若い人が増えたけれど、一方で「結婚や出産などのライフイベントは人生において達成しなければいけないもの」と考えている人もまだまだ多い印象です。
それは非常にコンサバティブな家族観に裏打ちされている姿に見えます。
カウンセリングに来談される人の中には、父親から「女には学歴なんかいらない」「女のくせに」と言われて育った人が今の20〜30代にも多くいます。
父親の女性蔑視がフェミニストを作ることもあるけれど、一方で女性である自分への自信を失わせてしまうこともあると思いますね。
自分のジェンダーに対する嫌悪感が原因で自分の本心や自己主張を抑えてしまうこともあり、それが時にDVや性暴力を拒否することを邪魔する可能性すらあるという。
また、「自分のことを被害者と思うなんて、もっと苦しんでいる人に申し訳ないと話す人も多い」と信田さん。
「あの人と比べたら、私の苦しさは大したことない」
そういった考え方は「絶対にやめて」と信田さんは警鐘を鳴らす。
苦しみや痛みは絶対に比較してはいけません。それらは主観であり、自分だけのもの。どうやったって比較なんかできません。
カウンセリングの中で「この程度の被害を口にしたら、もっと苦しい人から批判されると思って何も言えません」「こんな私に言う資格はない」と話す女性がいて、私は本当にびっくりするんですよ。
私たちの娘や孫の世代では「女性がもっとわがままになるに違いない」と思っていたのに、最近の女性たちは一体どうしてしまったのですか?
原因は「自己肯定感が低いから」ではない。もっと周りのせいにして
そうやって我慢してしまう根源の一つに、「自己肯定感」という言葉があるのではと信田さんは指摘する。
もともと自己肯定感は、臨床心理学者・高垣忠一郎さんが提唱したもの。親から認められない子どもが自身を肯定できるようにと作られた言葉だった。
その意味合いが変わったのは1995年。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きたほか、日本の正規雇用と非正規雇用の数が逆転した年だ。
社会が変化し、日本経済が規制緩和という言葉とともに低成長化する中で、自己肯定感という言葉は自己啓発的な意味合いで使われるようになり、あっという間に広がりました。
「自分が苦しいのは自己肯定感が足りないから」「自己肯定感を高めれば生きやすくなるはず」といった言葉とともに、自己肯定感という言葉は測定可能なものとして使われるようになり、今では高めたり増やしたりできると考えられています。
それをするのは自分ですから、自分で自己肯定感を高めるということは、自己完結の世界ではないでしょうか。
本来は雇用の在り方や働き方に問題があるのであり、元をたどれば経済構造や政策こそが問題なのに、「自己肯定感が高い/低い」と個人の問題に集約されてしまうのです。
だから信田さんは、「自己肯定感なんて言葉は絶対に使わないで」と訴える。
為政者や権力者にとって、こんなに甘い言葉はないですよ。
そうやって自分を責めて我慢させられているのは誰かのたくらみであり、それによって得をする人がいるということです。
「もっと苦しい人がいるから我慢しなければ」という考え方だって、「兵隊さんが戦地で苦しい思いをしているのだから、私たちはわがままを言ってはいけません」という戦争中の思想と同じです。
だから、そこには乗らないこと。
周囲から浮くかもしれないし、わがままだと言われるかもしれない。
でも、自分の苦しみを我慢しないで表に出すことでしか、ジェンダーの問題は解決できないのだと思います。
何も声高に叫ぶ必要はない。話す相手は身近な人でも、SNSでも、カウンセリングでもいい。
DVも、性暴力も、性差別も、被害を受けたら「つらかった」「嫌だった」と言っていいんですよ。被害に対して我慢をする必要は絶対にありません。
そのためにも、自己肯定感なんて言葉は使わないことですね。
もっと周りのせいにしていいんです。遠慮はしてもいいけれど、我慢はせず、若い皆さんにはわがままに生きてほしいと願っています。
取材・文・編集/天野夏海
『意外な分野のジェンダーギャップ』の過去記事一覧はこちら
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