【織田信成】“イヤイヤ”で始まったフィギュアスケート人生「自分の強みも天職も、全て周囲の人が教えてくれた」

【織田信成】“イヤイヤ”で始まったフィギュアスケート人生「自分の強みも天職も、全て周囲の人が教えてくれた」
一流の仕事人には、譲れないこだわりがある!
プロフェッショナルのTheory

今をときめく彼・彼女たちの仕事は、 なぜこんなにも私たちの胸を打つんだろう――。この連載では、各界のプロとして活躍する著名人にフォーカス。 多くの人の心を掴み、時代を動かす“一流の仕事”は、どんなこだわりによって生まれているのかに迫ります。

できない理由を探す前に、まずはやってみる。一流のプロフェッショナルと、そうでない人を分ける境界線は、きっとそんなマインドにあるのだろう。

けれど、頭では理解していても、つい先に言い訳を探してしまうのが人というもの。どうすれば言い訳癖を捨てて、未知のゾーンに飛び込むことができるのだろうか。

そこで話を聞いたのが、フィギュアスケーターの織田信成さん

男子シングルとしては異例の35歳で競技復帰を果たし、昨年、世界のトップシーンで戦う若手スケーターを退けて全日本選手権で4位入賞を果たした。

経験を積めば積むほど、失敗するのが怖くなる。できない自分をさらけ出すことが恥ずかしくなる。挑戦なんてそんなに簡単にできるものではない。

けれど、彼はあらゆる「できない」を言い訳にせず、挑戦し続けた。織田さんに学ぶ挑戦者の原動力とは――。

織田信成

【Profile】
織田信成(おだ・のぶなり)さん

1987年生まれ。大阪府出身。バレエ、フィギュアスケートの指導者である母の影響で幼少時からフィギュアスケートを始める。2005年、世界ジュニア選手権で優勝を果たし注目を集める。08年全日本選手権優勝、10年バンクーバー五輪出場(7位入賞)。14年ソチ五輪出場をかけた全日本選手権で総合4位に終わり、五輪出場を逃すと同時に引退を表明。現在はプロフィギュアスケーター、解説者、タレントなどとして多彩に活躍。著作に『眠れなくなるほど面白いフィギュアスケート案内』(SBクリエイティブ)などがある

同じ泣くなら、どっちの「泣いている自分」がいいか

フィギュアスケーター・織田信成。22歳でバンクーバー五輪に出場。日本中を沸かせたフィギュア黄金世代の立役者の一人だ。

2013年、競技引退。その後はバラエティー番組で引っ張りだこになるなど、セカンドキャリアも順調そのものだった。

そんな織田さんが異例の現役復帰を果たしたのは35歳の時。失敗に終われば、過去の栄光にも泥を塗りかねない。

「今さらどうして」と笑われるリスクを承知で、なぜ織田さんは挑戦の道を選んだのだろうか。

織田さん

そもそも人と同じことをしたくない人間なんです。大多数の人がAの道を選ぶなら、僕は自分がBは好きじゃなくてもBを選ぶタイプ。天邪鬼なんですよ(笑)

テレビで見せる明るいキャラクターそのままに、織田さんは人なつっこい笑顔を浮かべる。だが、現実はそんなに軽やかではなかったはずだ。

ビジネスの世界では年齢とともにできることが増えていく。けれど、アスリートは違う。9年のブランク。肉体は衰えを隠せない。

織田さん

瞬発力や筋力は若い頃に比べるとどうしても落ちてしまうんですよね。どう練習しても、もう一度当時のレベルに戻すのは正直難しい。

だからこそ、20代の頃と同じ練習方法、同じジャンプを目指してもダメ。

30代の自分に合った練習、30代の自分だからできる「そんなに力を使わなくても跳べるジャンプ」を編み出すことが、僕のやるべきことでした。

厳しい練習に、体が悲鳴を上げることは何度もあった。中でも苦しかったのが、「パワーマックス」と呼ばれる有酸素運動用のマシン。

3〜4分という決められた時間の中、全力でペダルを漕ぎ続ける。一度、競技を離れた肉体にはあまりにも過酷なトレーニングだった。

織田さん

それだけはやる前から憂うつになるというか。今から自分を追い込まなきゃいけないというプレッシャーがすごかったです。

つらければ逃げればいい、が通用しないのがトップアスリートの世界。

歯を食いしばって耐え抜き、自分にムチを打った人間だけが第一線で戦える。どうやって鋼の精神を養っているのだろうか。

織田さん

僕の場合は、「逃げても結局いつかはやらなあかんし」というのが大きかったですね。逃げて、できひんかって、最後に泣くのは自分。

人前でダメな演技をして泣いてしまうのも自分やから。同じ泣くなら、今ここでトレーニングして「もう無理です〜」って泣いてるほうがええやろって。

しんどいことに挑むときは、いつもどっちの泣いてる自分の方がいいかで覚悟を決めていました。

挑戦の秘訣は、いかに自分を面白がれるか

再び競技の道に返り咲いたことで、一度目の現役時代にはない変化も感じた。

織田信成
織田さん

一番は、驕りを捨てられたこと。

若い頃は張りつめていた分、どこかで自分のスケートのことは自分が一番よく分かっているんだという自負があったんですよ。

それを言葉にして直接言うことはないですけど、態度で出ていたところはあったと思う。

でも、歳をとることで人の意見にも素直に耳を傾けられるようになったし、「もっとこうしたらええんちゃう?」というアドバイスも1回聞いてみて、その上でやるかやらないか決められるようになった。

今の方が昔よりずっと驕りのない自分に近づけている気がします。

驕りは、視界を狭くする。肩の力が抜けたことで、試合に向かう気持ちも楽になった。

織田さん

昔は試合に勝たなきゃ、うまく演技をしなきゃという気持ちが一番でした。

でも今は、皆さんの前で滑ることができることに感謝する気持ちが一番。目の前のジャンプの出来不出来に、一喜一憂しなくなりました。

その無心の境地が偉業を生んだ。37歳で迎えた昨年の全日本選手権で4位入賞。ひとまわり以上も年の離れた若手スケーターにまじって、4回転ジャンプを成功させた。

中でもSP(ショートプログラム)で滑った『マツケンサンバ』は、間違いなくその日一番の大喝采だった。

織田さん

SPの時は、もうこの場に立たせてもらえることがうれしくて、その喜びを見ている人に伝えようという気持ちでいっぱいでした。SPは2分50秒。長い人生で見れば、たったの2分50秒です。

でもこの2分50秒で感謝を伝えることが今の自分にできることだと思った。というか、今それをやらなきゃ意味ないじゃんって。

たとえ失敗しても、こんなにもたくさんの人が見てくれる場所で滑れるならありがたいやんという仏マインドで滑りに行ったからこそ、あの演技ができた。

あれは37歳の自分だからできた演技だと思います。

2度目の現役を終え、織田さんが見つけた挑戦者の原動力とは何か。そう問い掛けると、織田さんは「いかに自分を面白がれるか」だとはっきり答えた。

織田さん

35歳からシングルで競技に復帰する男子スケーターなんて今までほとんどいなかったし、37歳で4回転ジャンプを跳ぶスケーターもほぼ前例がない。

自分がなれるかどうかは分からへんけど、なれたら面白いやんって。そういうワクワクする気持ちが原動力でした。

多くの人ができない理由にする「年齢」というディスアドバンテージでさえ、織田さんにとっては楽しむポイントの一つだった。

織田さん

歳をとるって意外と得なこともあるんですよ。若い子はみんな頑張って当たり前でしょ? それって結構大変だと思うんです。

僕なんてちょっとジャンプを跳んだだけで褒めてもらえる(笑)。僕からしたらそんなに難しくないことでも、めっちゃ褒めてもらえるんです。

だから、もっと頑張ったら、みんなどんな反応してくれるんやろうって。そういう想像を膨らませることが日々の練習のモチベーションになっていました。

自分の強みは、いつも周囲の人が教えてくれた

織田さんがスケートを始めたのは7歳の時。一度目の現役引退後もプロフィギュアスケーターとしてリンクに立ち続けた。

人生の大半を捧げたフィギュアスケート。文字通りの天職だ。

織田信成
織田さん

でも実は、最初はイヤイヤだったんですよ。親が「やれやれ」と言うからやっているだけで、小学生の時はずっと反抗していました。

コーチである母親はもともとフィギュアスケート選手だった。自らのフィギュア人生を「人から与えられた人生」だと織田さんは言う。

織田さん

だから、自分で道を切り開いた人の話を聞くと、めっちゃすごいなと思う。

だって、その道がどこに続いているか分からないのに、まず自分で最初の一歩を踏み出せたんでしょ。

アスリートに限らず、転職とか起業とか、そういうキャリアの決断一つとってもそう。それができるだけで尊敬ですよね。

僕はそういう気持ちが一切なかったんで(笑)

そう自虐めいた笑いで場を和ませながら、「でも」と織田さんは続ける。

織田さん

案外、自分の天職なんて人が与えてくれるものかもしれない

だから、自分のやりたいことは自分で見つけなきゃって変に気張らなくてもええんちゃうかなって思うんです。

フィギュアスケーターは、競技力だけでなく、選手の個性そのものが武器になる。

特に織田さんの1度目の現役時代は、高橋大輔さん、小塚崇彦さんと男子フィギュアも多士済々の時代。その中で織田さんはどうやって自分の強みを見つけていったのだろうか。

織田さん

そもそもキャラがかぶる人がいなかったんですよね。大ちゃんはクールでカッコいいタイプのスケーターで、小塚くんのスケートは端正。

僕は大阪生まれというのもあって、楽しいことが大好きな性格。自然とおもしろキャラに落ち着いていったところはありました。

その個性が最初に大きく花開いたのが、2004-2005シーズンのSP『スーパーマリオブラザーズ』だ。

ゲーム音楽に合わせ、マリオがブロックを叩き割るようにジャンプをするコミカルなプログラムで、日本男子史上2人目の世界ジュニアチャンピオンに上りつめた。

だが、この『スーパーマリオブラザーズ』も当初は「嫌だった」という。

織田さん

デヴィッド・ウィルソンという海外の振付の先生が提案してくれて。「この人、エキシビジョンの曲と間違えてはんのかな?」と思いました(笑)

振付をしている時も先生やコーチはずっとゲラゲラ笑っていて、僕は恥ずかしいからできれば違う曲が良かったんですけど……。

英語も簡単な単語しかしゃべれなかったので、「NO,NO」っていう言う以外の拒否の仕方が分からなくて(笑)

さすがにこれ以上「NO」ってきっぱり言ったら角が立つしな~と思って、のらりくらりやっているうちに、結局、SPで『スーパーマリオブラザーズ』をやることが決まったんです。

だが、それが自身を代表するプログラムの一つとなった。

織田さん

自分の強みや持ち味なんて、外から見たほうが分かるのかもしれないですね。

自分ではこれがいいと思っていても、周りから「君のいいところはこれだよね」と言われるものの方が、よっぽど「自分にしかないもの」だったりする。

人に言われて気づくことって多いので、やっぱり何事もまずは耳を傾けてみるのは大事だと思います。

織田さん

それに、今回復帰してみて改めて思いました。

僕は人から言われたことに身をゆだねながらやってきましたけど、それでもいまだに同じキャラの人が見当たらんなって。

誰もいないですからね、全日本で『マツケンサンバ』をここぞという時に滑ろうとする人とか。

そう考えると、結構めずらしい個性の持ち主やったんやな。それをみんなは分かってくれてたんやなって、30年やってようやく自分で気づきました(笑)

この素直でピュアなマインドこそが、織田さんを唯一無二のスケーターにした。そして、競技から退いてもなお織田さんの挑戦は終わらない。

織田信成
織田さん

これからはもっといろんな人が気軽にフィギュアスケートにふれられる場づくりに挑戦したいですね。

例えば、全国の子どもたちとふれ合えるような、47都道府県スケート教室の旅とか。

やっぱりスケートリンクが近くにないと、なかなかスケートにふれる機会ってないじゃないですか。

僕が行くことで、少しでもフィギュアスケートに興味を持ってもらえたらうれしいし、それがフィギュアスケートの人口増加につながったらもっとうれしい。

最初はいやいやだった……なんてお話しもしましたけど、僕はやっぱりフィギュアスケートが大好きなんです。

だから、これからはもっとフィギュアスケートに恩返しができたらと思っています。

まだまだ多くの人にとって「見るスポーツ」であって「するスポーツ」ではないと言われるフィギュアスケート。

その固定観念を覆すのは、決して簡単ではないだろう。だが、果てなき挑戦に織田さんの心が折れることはない。

なぜなら、人がしていないことにワクワクするから。できないことを面白がるマインドが、未来の可能性を広げていく。

Information

織田信成

『眠れなくなるほど面白い フィギュアスケート案内』(織田信成/SBクリエイティブ)

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取材・文/横川良明