ブランクはスキルアップのチャンス! 夫の海外転勤で退職した後の3年間が作った現在のキャリア
20代後半の女性たちがよく口にする、「30歳になっちゃう」という言葉。なぜ私たちはこんなにも30代になるのが怖いのだろう?
これからの人生について、一人であれこれ悪い想像をしてしまうから? それなら、少し先の未来を歩く先輩たちが、何に悩み、何に喜びながら30代を過ごしてきたのかを知れば少しは不安がなくなるかも。すでに30代を乗り越えた“40’sウーマン”たちが語る等身大の言葉に耳を傾けてみよう。
入社5年目で会社を退職
夫の海外勤務に同行してアメリカへ
新卒でアサヒビールに入社し、これまでに営業や人事などを経験した後、現在は国際部門で自社のビールを海外へ営業する仕事をしています。パラオやグアムなどの南洋諸島や欧米諸国を担当した後、今年4月から極東ロシア地域も受け持っています。月に1度は海外出張があり、忙しい毎日ではありますが、外国に日本のビールを広めるという仕事に面白さとやりがいを感じています。
とはいえ、実は私、一度会社を辞めているんです。入社4年目に大学院生だった夫と結婚したのですが、その翌年、彼がミシガン大学の出資で、企業の研究室で博士号取得後に任期制の職に就く、博士後研究員として働くことになったので、私も付いて行くことにしたのです。それが29歳の時でした。
会社を退職することに迷いはありませんでした。一緒に行ったらきっと面白いだろうなと。将来また日本に戻ってきたら仕事はどうするのか、といった不安もありませんでした。というより、まだ20代で若かったので、あまり深く考えていなかった(笑)。ただ私が幸運だったのは、退職する年に再雇用制度が導入されたことでした。それで第一号の登録者として再雇用登録をしてから、夫の勤務先があるアメリカ・ミシガン州へ渡りました。
最初は専業主婦として過ごすつもりでした。でも、当時は子どもがいなかったので、時間はたっぷりある。そこで地元の大学に学士編入して、以前から興味のあったコミュニケーション学を勉強することにしたのです。そうはいっても、入学に必要なTOEFLの点数には足りないレベルの英語力だったので、まずは語学学校に通うところから始めました。特に英語が得意だったわけでもないので、それはもう必死で勉強しましたね。人生の中で一番エネルギーを使ったのは間違いなくこの時です。半年ほど通って何とかTOEFLの点数も上がり、大学に編入することができました。
大学に入って授業が始まってからも、やっぱり大変でした。宿題の量が膨大でしたし、私の英語力もまだまだでしたから、先生の話すことを録音し、家に帰ってから聞き直して復習しました。でも、授業は面白かった。机上の勉強だけでなく、実践的な授業も多くて、スピーチとパフォーマンスは必須ですし、演劇をやったり、テレビやラジオのCMを制作したりと、日本の大学では学べないようなプログラムを体験できました。
海外では子どもを持つ女性が働くのは当たり前
だから出産後も迷いなく仕事を続けた
そして大学で勉強したこと以上に、私にとって大きな学びになったのが、日本の外にある広い世界を知ったことです。今は随分状況が変わりましたが、当時のアメリカは人種差別が残っていました。私が住んでいた場所はさまざまな人種が集まっていたのですが、ちょっと地方に行くと、特にミシガン州は白人が多く、アジア人が少ない地域でしたから、より差別を感じる機会が多かったのかもしれません。英語もまだ流暢でなかったこともあり車を修理に出しても後回しにされたり、なぜかカードでの支払いを断られたり。地元のコンビニに入ったら、お店の人にジロジロ見られたのを今でも覚えています。きっと日本人を見る機会があまりなかったんでしょうね。世界には自分をこんな目で見る社会があるのだと知りました。だからといって外国が嫌になったわけではなく、むしろ視野が広がった感じでしたね。私が知っている世界が全てではないことを身に染みて感じましたし、今まで考えもしなかったことを新たに考えるようにもなりました。「日本に帰ったら、外国から来た人には絶対に親切にしてあげよう」と思ったのもその一つです(笑)。
こうして3年間のアメリカ滞在を終え、31歳で日本に帰国しました。コミュニケーション学を活かせる業種に転職することも考えましたが、新人時代の上司が「人員に空きが出るから、戻ってこないか」と声を掛けてくださったのが決め手となり、再雇用制度を利用してアサヒビールに戻ることにしました。
復職後は人事部を経て、本社の営業部で輸入ビール事業を担当することに。海外の提携ビール会社から輸入した商品を日本でどう拡販していくかという戦略作りやマーケティングが主な仕事です。自分で会社に希望を出したわけではないのですが、結果的に英語を活かせる部署に配属になったわけです。私が知る海外はアメリカだけでしたが、ドイツやイギリスの人たちと一緒に仕事をして、さらに自分の世界が広がりました。
ただ、戸惑いもありました。この部署は私以外の全員が男性で、しかもかなりハードに働く職場だったんです。遅くまで残業したり、タイトなスケジュールの中で資料を仕上げるなどは日常茶飯事。もちろん今は弊社でもワーク・ライフ・バランスの考え方が浸透していますが、1990年代当時はどこの日本企業も猛烈に働く風潮があったと思います。
そんな中、私は34歳で出産し、産休育休を経て1年後に復帰しました。当時は出産したら退職する女性が多かったし、普通ならこんなにハードな仕事と育児を両立できるのかと迷う場面かもしれませんが、私は仕事を辞めるつもりはありませんでした。理由の一つは、夫の理解があったこと。家事や育児も平等に分担するどころか、8割くらいは彼が担当してくれたんじゃないかな(笑)。
そしてもう一つの理由は、海外の女性たちが出産後もごく普通に働く姿を見てきたこと。アメリカで暮らしていた時も周囲にワーキングマザーがたくさんいましたし、一緒に仕事をしていた海外のビール会社の女性が、妊娠中の大きなお腹を抱えて日本へ出張してくる姿も見ていたので、「子どもを持つ女性が働くのは、世界では当たり前のことなのだ」と思ったのです。
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