「企業風土に無理に馴染まなくていい」野田聖子議員が語る、圧倒的マイノリティーだからこそできること

日本の職場の多くは未だに“男性社会”だと言われている。そんな中、職場にどう馴染めばいいのか悩んだり、働きにくさを感じている女性も少なくないのでは?
そこでこの連載では、圧倒的に男性が多い職場でいきいきと働いている女性たちにフォーカス。彼女たちの仕事観や仕事への取り組み方をヒントに、自分自身の働き方を見つめ直すきっかけにしてみよう!

衆議院議員
野田聖子(のだ・せいこ)さん
1960年 東京生まれ。上智大学卒業後、株式会社帝国ホテルに入社。フロント業務などを経て、同社初の国際セールス部女性セールス部員となる。84年、祖父・野田卯一の養女となり、野田姓を継ぐ。87年、岐阜県議会議員選挙に当選。93年、第40回衆議院議員総選挙で初当選。98年7月発足の小渕内閣では、37歳10カ月で郵政大臣に抜擢され、話題を集めた。以降も内閣府特命担当大臣、消費者行政推進担当大臣、宇宙開発担当大臣、自由民主党総務会長などを歴任
列国議会同盟(IPU、本部ジュネーブ)によると、日本の女性国会議員の比率はわずか9.5%だという(2015年1月1日時点)。そんな完全なる男性社会の中で、長年声を挙げ続けた女性政治家がいる。衆議院議員、野田聖子さんだ。1987年に政界入り。以降、数々の要職を歴任し、女性政治家のフロンティアとして走り続けてきた野田さんの軌跡は、この数十年の日本の働く女性の歴史と符合する。
今なお男性優位が続く日本の労働市場の中で、女性が輝きながら仕事を続けていくために必要なことは何だろう。その答えを、野田さんが歩んできたキャリアをヒントに考えてみよう。
15年間、女性代議士が1人もいなかったことに誰も気付かなかった
「志なんて無かったんです」
政界入りのきっかけを問われた野田さんは、さらりとそう答えた。県議会議員選挙に向けて、岐阜に移住し初めての選挙活動を始めたのは、25歳の時。国会議員だった祖父の支援者たちから熱烈な後押しを受け、半ば担ぎ出されるような形で政界に飛び込んだ。
もともと政治に関心があったわけではない。だからこそ、常に初心として掲げ続けているのは、周囲の人の声に耳を傾けることだ。
「私のところには昔から“何か物申したい方”たちが大勢やってくるんです。そんな人たちの意見を聞き、法律の形に編集して世の中に発信するということを、この30年間やってきました。だから、私個人には『志』なんてものは無いんです。ただひたすら、人の志を背負って歩いてきたんです」
93年、第40回衆議院議員総選挙で初当選。自民党としては実に15年ぶりの女性代議士の誕生となった。
「それまで15年間、自民党には女性の衆議院議員がいませんでした。だけど、誰もそれに気付くことさえなかった。それくらい、自民党では『政治は男の仕事』というのが当然の認識だったんです」
周囲の人ができないことを得意分野にしたことが自分の足場となった

野田さんが衆議院になった当時、国会には女性用のトイレが少なく、男性用トイレにベニヤの仕切りを立てて間に合わせるような状況だったそう。
郵政大臣に登用されたときは、すれ違いざまに先輩の政治家から「スカートを履いていれば大臣になれるんだな」と嫌味を浴びせられたこともある。そんな環境の中で現在につながる確固たるポジションを確立できたことを、野田さん自身は次のように自己分析する。
「マイノリティーならマイノリティーなりに、自分がここにいる意味を持たなくちゃって思ったんです。そこで、意識的に周囲の議員たちが苦手とする分野を自分の得意分野にしてしまおうと考えました。それで思いついたのが、IT。私は国会議員になる前からパソコンを日常生活の中で普通に使っていました。でも、周りのおじさん議員たちは正反対! 小渕さんが総理になったとき、全議員にパソコンが支給されたんですけど、中には部屋で踏み台代わりに使っていた人もいたくらいですから(笑)」
閣僚史上最年少(当時)の37歳10カ月で郵政大臣に抜擢されたのも、情報通信に関する見識を評価されてのことだった。
「自民党は年功序列の組織で、先輩がやっていることに手を出そうものなら『生意気だ、黙ってろ』って言われるような世界なんです。だったら『皆がやっていないことをやろう』と決めて取り組んだのが、情報通信と少子化対策と女性政策。私が着手するまでは誰も専門的に取り組んでこなかった分野だったので、自分の右に出る者はいないという自負をもって進めてきました」
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