【調教師 宮川真衣】楽しいだけじゃダメだ。30代で「大好きな仕事」をあえて手放し引退した女性騎手の決断
生き方も、働き方も、多様な選択肢が広がる時代。何でも自由に選べるって素敵だけど、自分らしい選択はどうすればできるもの? 働く女性たちが「私らしい未来」を見つけるまでのストーリーをお届けします
男性が中心の競馬界の中で、近年は騎手や調教師として働く女性の存在が目立つようになってきた。
宮川真衣(旧姓:別府真衣)さん(34歳)もその一人。2005年にセンターカノン号にまたがった彼女は、初戦にして初優勝。
女性騎手としては全国歴代2位の747勝を挙げ、高知競馬の騎手として第一線で活躍を続けてきた。
だが、2021年の冬、宮川さんは騎手を引退し、厩舎運営や競走馬管理を生業とする「調教師」へと転身。
現在は自身が経営する厩舎で、馬主から預かった競走馬の世話やトレーニング、健康管理を行い、レースに出走させている。
競馬界の表舞台から裏方へ。新しいキャリアのステージを歩み始めたばかりの彼女は、「何年かかるか分からないですけど、自分なりのやり方で調教師界のトップを目指したい」と次の高い目標について語る。
「常に“今”を全力で頑張ってきた」という20代を経て宮川さんが見つけた、私らしい未来とは――。
騎手の仕事が大好き。でも、勝てないなら「この仕事を諦める」
騎手の世界に女性はまだまだ少ないのですが、父が騎手だった私にとって、ジョッキーになる選択はごく自然なことでした。
幼い頃から馬が身近にいたし、競馬場にも足を運んでいて、物心がつく頃にはすでに「ジョッキーになりたい」と周囲に言っていたそうです。
ただ、17歳の時に騎手デビューを果たして本格的に仕事を始めると、競馬界の花形の舞台でみんなから応援してもらえることに大きなやりがいを感じる一方で、仕事の厳しさも見えてきて。
みんなの期待に反して全く勝てない時期が続いたりすると、精神的にしんどくなる時期もありました。
さらに、今でこそ女性騎手も増えて活躍の機会が増えていますが、私がデビューした頃はまだまだ競馬界に女性が少なくて。
いい結果を残せば何も言われないけれど、良い結果を残すことができなければ「やはり女性はダメだね‥‥‥」なんて言われることもあって。
「男性以上に勝たなきゃダメなんだ」と自分を追い込んでいった時期もありましたし、「誰にも文句は言わせない」という気持ちが、勝利への原動力にもなっていました。
今、騎手時代を振り返っても一番いい思い出として頭に浮かぶのは、初勝利を収めた2005年のレースです。
場内の大歓声を浴びながら、ゴール板に1着に飛び込んだ時の快感は、騎手だけが味わえる特権。
初優勝を飾ったレースのことは今でも鮮明に覚えていて、「あの時の快感をまた味わいたい」「あの時の自分のように、楽しくレースに臨んで勝ちたい」そういう気持ちがあったから、勝てなくて辛い時期が続いても、何とか乗り越えてこられました。
調教師になった今も、騎手の仕事が大好き。本音を言えば、もっと騎手でいたかった。でも、30代になってからというもの、女性特有のカラダの変化や不調が続き、引退を決断せざるを得なくなりました。
好きだから続けるという選択肢もあったと思うんです。でも、それは自分のためでしかない。騎手として働く以上は勝ってなんぼ。
万全の体制でレースに挑むことができず、本気で勝利をとりにいけないのであれば、潔く騎手であることを諦めよう。そう考えたんです。
そこで、調教師免許試験を取得し、2021年の冬に騎手引退を発表しました。
「速い馬に乗りたい」から「走ってくれてありがとう」へ
騎手を引退して調教師になったのは、大好きな馬や競馬に関わる仕事をこれからも長く続けたかったから。
調教師は厩舎運営を行う経営者の立場なので、これから自分のライフステージが変わっても、柔軟に働き続けられると思って選びました。
調教師の主な仕事は馬主から預かった競走馬を、万全の状態で管理し、レースに送り出すこと。まだ開業したばかりの厩舎なので、私も厩務員の一人として馬のお世話をしていますし、騎手に代わって騎乗して馬を走らせトレーニングすることもあります。
今は、騎手時代とはまた違ったやりがいがありますね。レースに出ていたころは、「速い馬に乗りたい」「試合に勝ちたい」と自分のことばかり考えていました(笑)
でも、その時とは視点が変わり、自分の厩舎の馬たちが一生懸命走って無事に戻ってきたら、それだけでうれしくて。馬にも、厩舎で働くみんなにも、「ありがとう」っていう気持ちが溢れてくるんです。
なぜなら、調教師として競馬の裏方仕事をするようになってから、レース会場に健康かつ勝負ができる状態の馬がいることがどれだけ奇跡的なことなのかが分かるようになったから。
騎手の時代は、自分が乗る馬がそこにいることなんて「当たり前」だったんですけど、その「当たり前」は数々の人の努力によって支えられていることがよく分かりました。
私はもう騎手に戻ることはないけれど、調教師や厩務員を経験してから騎手になっていたら、レースの戦い方も馬との信頼関係の築き方もまるで変わっていたかもしれない。
もしできることなら、一人でも多くの人に「裏方も経験してみて」って言いたいです(笑)
20代の全力投球で開けた、30代からの自分らしい道
私の調教師としての方針は、「馬の気持ちを尊重する」ということ。もちろん、馬は言葉をしゃべらないので、実際に何を考えているかは分かりませんが。
暴れたりしたときも、やみくもに怒るのではなく、なぜそういう行動をとったのか、理由や背景を人間が考えてあげる。そして、その原因となるものを排除していく。
そうやって、極力ストレスがかからず自由に過ごせる環境を整えてあげたいと思っています。
まだ厩舎開業から1年未満ですが、22年5月に「黒潮皐月賞」というレースで私の厩舎で育てたヴェレノ号が初勝利を挙げました。
「自分がやってやったぞ」という感覚は全然なくて、厩舎で働くスタッフや頑張ってくれた馬に対して感謝の気持ちが湧くばかり。
手探りの日々ではあるけれど、調教師として歩み出したこの数カ月の日々はすごく充実していて、あんなに好きだった騎手の仕事より「むしろ、向いている?」なんて思ったりして自信も少しずつついてきました。
今、自分らしく働けているかどうかで言えば、はっきりイエスと答えられると思います。
30代になり、体調が理由で好きな大好きだった騎手の仕事を辞めなければいけなくなったときは落ち込んだし不安でしたけど、違う形で馬や競馬界に貢献できているし、納得感のあるキャリアが選択できたと感じます。
なぜここまでたどり着くことができたのかといえば、特別なことは何も思い浮かばないのですが……常に自分ができる精一杯のことをやってきたことに尽きますね。
あれもこれもと先のことを考えるのは苦手な性格ですが、目の前にある自分の課題や騎手として果たすべき使命に全力で取り組んだから、自分が仕事としてやりたいことは何なのか、自分の得意・不得意は何なのか、自分の限界はどこにあるのか、いろいろなことを知ることができました。
そうやって全力投球でもがいているうちに、30代からの人生をどうやって生きていくのか、自然と進みたい道が見えてきた気がします。
全国から指名が集まる「選ばれる厩舎」をつくりたい
これからの夢は、高知県だけにとどまらずに他の地区でもレースで活躍できる馬を育てていくこと。そして、「馬も人も働きやすい厩舎」を作り上げることが目標です。
例えば、「この厩舎で働きたい」というスタッフさんや、「この厩舎に馬を預けたい」と言ってくれる馬主さんが全国から集まってくるような。指名される厩舎へと成長させたいです。
あとは、馬にとっても伸び伸びと過ごせる厩舎にしたいので、無理なペースで規模を拡大する気もありません。
まずは、自分の目が行き届く範囲で、一頭一頭にしっかり向き合える規模から厩舎を育てていく。馬を増やすときは、しっかり面倒を見る人もセットで増やしていきたい。
馬って、一頭一頭全然性格が違うんですよ。あと、普段過ごしている環境もその子たちの性格に反映されるというか。
いつも怒られる環境にいる馬たちはやっぱりどこかイライラ、ピリピリしているし、自由にストレスすくなく育てられた馬たちは穏やかな性格になりやすい。騎手時代も、厩舎ごとに馬の性格や気性の違いを如実に感じていました。
だから、私の厩舎では、馬たちの「自分らしさ」を尊重して、伸び伸びと走れる子たちを育てていきたい。
大きな夢を掲げていますけど、取り組むことは一歩一歩できることから。そうやって着実に理想の厩舎をつくっていけたらと思います。
取材・文/モリエミサキ 写真/生津 勝隆、ご本人・高知県競馬組合 提供 編集/栗原千明(編集部)『「私の未来」の見つけ方』の過去記事一覧はこちら
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