映画『バービー』が描くのはデフォルメされた人間社会? 職場で見過ごされがちな「ジェンダーの先入観」に気付くためにできること
日本のジェンダーギャップ指数が低いニュースが毎年のように報じられているが、「何がそんなに問題なの?」とピンとこない人も多いのではないだろうか。
そんな働く女性たちに向けて、東京大学の特任助教であり、ジェンダー問題の若き論客である中野円佳さんが、ジェンダー平等の超後進国と言われる日本で働き続けていく上で知っておくべき「ジェンダーの今」について解説します。

今回取り上げるテーマは、映画『バービー』。
ピンクで彩られたかわいらしい世界観を楽しむ映画と思いきや、実はフェミニズム映画としてジェンダーの専門家かいわいでは議論が繰り広げられている映画だ。その描写により、公開禁止になっている国もあるほど。
映画『バービー』から私たちが学べることとは何なのか。中野さんに解説してもらった。
(※)一部ネタバレを含みます

【この記事を書いた人】
東京大学特任助教
中野円佳
東京大学男女共同参画室特任助教。2007年東京大学教育学部卒、日本経済新聞社入社。14年、立命館大学大学院先端総合学術研究科で修士号取得、15年4月よりフリージャーナリスト。22年より東京大学男女共同参画室特任研究員、23年より現職。厚労省「働き方の未来2035懇談会」、経産省「競争戦略としてのダイバーシティ経営の在り方に関する検討会」「雇用関係によらない働き方に関する研究会」委員などを歴任。著書に『「育休世代」のジレンマ~女性活用はなぜ失敗するのか?』(光文社新書)『上司の「いじり」が許せない』(講談社)『なぜ共働きも専業もしんどいのか~主婦がいないと回らない構造』(PHP研究所)、『教育大国シンガポール』(光文社新書)。キッズラインをめぐる報道でPEPジャーナリズム大賞2021特別賞、調査報道大賞2022優秀賞(デジタル部門)。シンガポール5年滞在後帰国 ■Twitter
あなたの職場にも理不尽な不平等が隠れているかも。
「男女逆転」の発想が、違和感に気が付くヒントに。
映画『バービー』が話題になっているのをご存じだろうか。
あまりにピンクピンクの予告編を見て、かわいらしい映像を楽しみたい人向けの映画なのかと考えていたら、にわかに耳に飛び込んできたのは「これはフェミニズム映画」という評判だ。そこで、9月の週末に娘と観に行ってきた。
マジョリティーの傲慢さに気付かないおかしさ
映画『バービー』の中でバービーは、恋人のケンと、死も老いもない完璧なバービーランドで、連日パーティーやドライブをして暮らしている。
しかしその“完璧な”バービーランドに異変が生じたことをきっかけに、人間の世界に足を踏み入れたバービーは、バービーランドとは真逆の世界を目にする──。これが映画のおおまかなストーリーだ。
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映画を見ると、「男女入れ替え」の極端な世界を疑似体験できる。映画で描かれる世界のおかしさは何重にも私たちに気付きを与えてくれる。
一つ目は、女性の理想郷的に描かれるバービーワールドのいびつさだ。
バービー人形たちがそれぞれに仕事をし、自分の足で立っている。医師や政治家など、あらゆる職業に女性が就いて、意思決定をするのも、ノーベル賞を受賞するのも女性ばかりだ。
しかし、個人的には、かなりデフォルメされているバービーワールドが理想郷だとは全く思えなかった。人種や体形などでは一見、多様性に配慮しているように見えるが、かなり画一化された価値観で統一されているように見えたからだ。
仕事をバリバリこなしているだけではなく、外見も完璧で、憂慮することなどなくHappyでにぎやかな日々がひたすら続く…これがバービーワールドの価値観に見える。
「女の子はこうやって過ごすのが好きなんでしょう?」という男性ばかりのマテル社(バービー人形の販売元企業)経営陣の妄想が描かれているという設定だからなのだろうが、頭が痛くなった。
これに対し、映画の中で、現実世界を生きるマテル社の女性社員が、女性は美しくスリムで、でもやせすぎてはいけないし、モテないといけないけど、モテすぎてもいけなくて、リーダーシップも発揮しながら、周りのケアもしないといけない……どれだけやることがあるのよ、そんな呪縛からは解き放たれていいというようなことを言う部分がある。私はここに一番共感した。

このような違和感を言語化することで、バービーたちがハッとわれに返るシーンもある。
女の子だってどんな仕事にだって就けると信じられるのは素晴らしい。
美容にも気を配りキラキラした生活をエンジョイできることも、国の経済や政治に関与していけることも重要だ。でも、一人の人間がその全部を手に入れなければいけないと思っていたら疲れきってしまう。
もう一つ、バービーワールドに抱く違和感は、ケンを代表とする男性たちが、とことんないがしろにされているということだ。
ケンが幸せを覚えるのは、バービーの瞳にケンが映るときだけ。ケン自身の意志は見えず、ひたすらバービーに評価されるためだけに献身的にふるまうが、バービーにとっては女友達の方が大事で、ケンのことは気が向いたときに視野の片隅に入ってくるだけ。
その後、人間社会に行ったことで「家父長制」の概念を知り、男性中心社会を見て感化されたケンたちの洗脳により、バービーワールドの男女の立場は逆転。今度は女性たちが「男性のサポートをする」ことに生きがいを見いだすことになる。
男女が逆転すると、急に現実世界でも少なからずこのような現象が起こっているかもしれないと思わされる。

日本社会でも、日々の生活の中や職場で、女性は男性のサポート役に徹し、「女の子の入れるお茶のほうがおいしいから」「職場の華」などと言われたり、偉い人の両隣に座らせられたり、男性目線での「女性の価値」に徹しないといけないような状況はないだろうか。
「正常」に戻ったバービーワールドでもまた、マイノリティーへの配慮はほとんどされない。
私たちはこのようなマジョリティーの傲慢さに、マジョリティー側にいるときにほとんど気付かないのだが、マイノリティーであってもあまりにも長い間その秩序に飼いならされてしまうと、気付かなくなってしまう。
たまに逆転した状況を想像してみると、現状の世の中や職場の在り方のおかしさに気付くことができるかもしれない。
職場に潜む「性別による呪縛」に気付くために
最後に、残念ながら映画の中で描かれる「リアルワールド(人間社会)」で女性が感じる居心地の悪さ、受け取る性的視線などは、決して「こんなのあり得ない」と笑い飛ばせないほど生々しい。
映画を見てちょっと反発する男性もいるかもしれないが、普段女性たちが感じているモヤモヤを少しでも感じてもらうのにはいいのかもしれない。
映画内では、最後までマテル社の経営改革や社会システムの変革が達成されるわけではなく、一人の行動変容に焦点が当たってしまう点もあり、映画『バービー』を見た後に必ずしも気分も晴れるわけではなかった。
映画の最後に必ずしもスカッとするどんでん返しが起こらないのは、人形や映画の世界も現実もそう甘くないということだろうか。私たち一人ひとりは、現実のジェンダーバランスに疑問を唱えながら、目の前の困難を何とか乗り越え、前を向いて進んでいかないといけない。

現実世界は、人形の世界のようにきれいなことばかりではない。人形とは違い、私たちは年を取ること、体形が変わること、苦しみや悲しみ、葛藤を抱えながら生きていくことしかない。
葛藤を抱えながら、夢見がちではなく、生きていこう。そういうメッセージを監督は発したかったのかもしれない。
仕事もバリバリして、見た目にも気を抜かない、完璧じゃないといけない、そういうバービーのプレッシャーも、異性に評価されるといった他者からの承認を基準に動くだけだったケンのつらさも。
そんなのおかしいよ、と自分自身や周囲の呪縛を少しずつ解いていくためには、魔法の呪文ではなく、状況を言語化してみたり、男女逆の状況を想像してみるということが効きそうだ。バービーは、そんなヒントをくれる映画だったのではと思う。
もともと映画の最初にも示唆されるように、人形遊びは「母親になる練習」として女の子たちにあてがわれていた。 『プリンセス願望には危険がいっぱい』という本の著者ペギー・オレンスタインは、赤ちゃん人形は「弱まりつつある白人少女の母性本能を復活させ、妊娠と言う愛国的義務を思い出させるための一手段」として導入されたという見方をしている。
しかし1960年代に性別役割分担が流動的になる中で、1959年に登場したバービーは新しい独立独歩の女性像で、それが外見によって築かれているという点はあれども「フェミニストの偶像」だったとペギーは論じる。 以来、米国を代表する玩具となり、長い間、女の子たちの「ほしいおもちゃ」ナンバー1を誇示してきた。 人種やバービーが就く職業の多様性も考慮されるようになり、初期のファッション関係を彷彿させる服装だけではなく、宇宙飛行士や医師、弁護士、それから映画では大統領にも女性が就任しているように、「女の子は何にでもなれる」を体現しようとしてきた。
しかし、その「セクシー」な見た目などから、学術界からは、とりわけ心理学などで、名指しで批判されてきた(※参照)。 少女/女性が「身体」や「外見」で価値があるとみなされることに対する精神的な負担について、アメリカ心理学会の議論が引用され、現実にはあり得ない体形としてバービー人形はやり玉にあがってきた。
これに対して、マテル社は、近年ではダウン症のバービーや車いすに乗っているバービーを作ったり、体形についても2016年にオリジナルに加え、トール(長身)、カービー(曲線美)、プチ(小柄)の3種類を加えたりするなど、さまざまな取り組みをしてきた。コロナ禍に、こういった多様化のかいもあってか、売り上げは回復したようだ。
しかし、この多様なバービーに対してもさらに批判がされるなど、バービーとフェミニズムの関係は複雑であり続けている。 だから、今回、もちろん映画を制作しているのは監督であるものの、マテル社がどこまで許容しているのかには興味があった。映画を観てからの感想としては、マテル社は相当の覚悟でこの映画にGOサインを出したのではないかと思う。
映画の中のマテル社の経営陣は、実際のマテル社とは異なり男性ばかりの非常に偏った構成になっている。 最後に経営陣が刷新されないところも、監督がある意味で簡単には変わらない現実を反映させようとしてたところかもしれない。実際、いくらマテル社が自問し、多様化をはかったところで、バービー人形がルッキズムをこれからも助長してしまうところは消えないのではないかとも思う。
映画を観て数日後に、映画の中のデフォルメされたマテル社の経営会議よりももっと均質的な日本の政治家のリアルな写真を見て、より暗たんたる気持ちになったのは私だけではないのでは……。話はそれたが、もしこれから鑑賞する人がいたら、ぜひこういった背景も踏まえて観てみてほしい。
『働く女性が知っておきたい「ジェンダー入門」』の過去記事一覧はこちら
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