01 DEC/2023

【アナウンサー×いかめし社長】今井麻椰がメディアに映るキラキラした自分と現実のギャップに苦しんだ先に見つけた、自分らしい二刀流

連載:「私の未来」の見つけ方

生き方も、働き方も、多様な選択肢が広がる時代。何でも自由に選べるってすてきだけど、自分らしい選択はどうすればできるもの? 働く女性たちが「私らしい未来」を見つけるまでのストーリーをお届けします

自由にやりたいことにチャレンジし、平凡ではないキャリアを歩んでいる人を見ると、「自分とは違う世界の人だな」「うらやましいけれど、自分には無理だな」と一歩引いた気持ちになることもあるだろう。

アナウンサーと両立して「いかめし阿部商店」三代目社長も担う今井麻椰さんはまさに、そういった「非凡」のイメージを持たれることが多い女性だ。

今井麻椰さん

今井 麻椰(いまい・まや)さん

2013年に慶応義塾大学環境情報学部を卒業後、カナダのブリティッシュコロンビア工科大学へ留学。留学中、現地で開催された北海道フェアで家業のいかめしのプレゼンをしたのがきっかけで、帰国後はアナウンサーの道へ。アナウンサー業と両立しながら、20年5月にいかめし阿部商店の3代目社長に就任。現在は社長業と「バスケットLIVE」のMCやリポーター業を両立

「美人社長」
「アナウンサーと社長の二刀流」

メディアでそんなキラキラした取り上げられ方をする一方で、経営のイロハも分からず何もできない自分に「私はただの広告塔にすぎない……」と思い悩んだという今井さん。

世間の目に映る自分と現実のギャップに苦しみながらも、今井さんがアナウンサー業と社長業のどちらも諦めずに、自分らしい未来を見つけるまでのストーリーを聞いた。

「伝えること」の楽しさを知った、アメリカでのいかめし販売

北海道の人気駅弁「いかめし」を販売する「いかめし阿部商店」のひとり娘として生まれ、幼い頃からいかめしとともに育ちました。

よく「私のきょうだいはいかめしだ」なんて言っているんですが、私にとっていかめしは家族同然で、近くにあるのが当たり前の存在。いかめしから離れるなんて考えたこともありませんでした。

小学校の卒業アルバムにも「将来の夢は“いかめし三代目”」と書いていたくらい。

今井麻椰さん

お手伝いで駅弁を売るのが楽しかった小学生時代

そんな私ですが、最初に志したのはアナウンサーの道でした。

アナウンサーになりたいと思ったきっかけは、アメリカでいかめしの実演販売をしたこと。大学卒業後、カナダのバンクーバーに留学していたのですが、その頃に家業の手伝いでアメリカでの催事のサポートを頼まれたんです。

もちろん海外でのイベントは初体験。アメリカ人になじみのある食べ物ではないから足も止めてもらえない。どうしたら興味を持ってもらえるんだろう……。

考えを巡らせた結果、伝え方を工夫してみることにしました。

「照り焼きソースに似てるよ」と言ってみたり、当時アメリカでお餅がはやっていたので「中にはお餅みたいなお米が入ってるよ」と伝えてみたり。外国人が好む日本の食べ物に置き換えて、接点を作ってみたんです。

すると、うそみたいに飛ぶように売れて。気が付けば2週間の催事が終わるころには大人気商品になっていました。

「君はなんでそんなに伝えるのがうまいの?」「そういう仕事をした方がいいよ!」なんて言ってもらえて、つたない英語でも伝えようという意志があれば伝わるんだなぁと感じましたね。

今井麻椰さん

カナダに留学中の今井さん

人に伝える楽しさや醍醐味を実感した私は帰国後、大学生たちに混ざってアナウンサースクールに通い始めました。

そこでアナウンサーの登竜門と言われるBSフジの学生キャスターのオーディションを勧めていただき、運よく合格した私は、生放送でニュースを読む経験をさせてもらえることに。

ここで「やっぱり伝えるって楽しいな」って心底感じて。この世界でやっていこう!と決意したものの、大手テレビ局のアナウンサーはほとんどが新卒しか採用しないんですよね。

私は大学を卒業して時間がたっていたこともあって、チャンスに恵まれなかった。

諦めて一般企業に就職する道もあったと思うんですが、チャレンジしてもいないのに諦めるのは嫌だったんです。できることを全部やってみてから諦めるのでも遅くはないって。今でも“Never too late”は私のモットーです。

そんな時に、運命の出会いがありました。それが、2016年に開幕したバスケットボールBリーグ初の応援番組。

私自身バスケットをしていたこともあり、「絶対やりたい!」と思ってオーディションを受けてみたんです。

そしたら見事、アシスタントMCとして採用されて。晴れて、念願のアナウンサーとしてのキャリアがスタートしました。

今井麻椰さん

アナウンサーも楽しいけれど、家業も手放したくない

アナウンサーとして働く時間はとても充実していました。そんな中、実家の「いかめし阿部商店」では跡継ぎ問題が深刻化していました。

父は70代、スタッフも60~70代が中心で高齢化が進んでいて、いつ何があってもおかしくない状態。老舗の旅館や伝統のある店が閉店したり、売却したりするという話も多く耳に入ってくる。

そんな中、父が亡くなったときにいかめしをどうするのか? と考えたとき、手放すのは絶対に嫌だと思ったんですよね。

やっぱりいかめしが好きだったし、「誰かに取られちゃう」っていう感覚が強くて。それなら私が代表になって守ろう。そんな思いから三代目を継ぐことを決意しました。

今井麻椰さん

でも当時はコロナ禍真っただ中。催事が主戦場のいかめしにとってその打撃は小さくなかった。

幼い頃からいかめしのお店を見てきて、老舗のお店を経営することの大変さも理解していたけれど、私にはアナウンサーやリポーターの仕事を辞める選択肢はなかったんです。

アナウンサーは、大学卒業後、私が自分の力で唯一頑張ってきたものだったし、ここが自分の生きる世界だと思っていたから。

この二刀流は決して楽ではないだろうということは容易に想像はついたけれど、やらずに諦めるのは嫌で。

やってみてダメだったら辞めればいいや。そのくらいの気持ちでやってみることにしました。

私は何もできない、ただの広告塔

いかめしの売り上げのメインは催事での実演販売。でも社長に就任した直後はコロナ禍真っただ中で催事はできない。まさに「ゼロ」からのスタートでした。

しかも、売り上げだけでなく経営スキルもゼロ。

表に出ていかめしを作って販売したり宣伝したりすることはできるけれど、財務的なことに関しては素人。何も分からないし、何一つ判断できない。

でもメディアに映る自分は、バリバリ二刀流で社長業をこなしている敏腕経営者。

これじゃ経営者ではなく広告塔だ……っていう葛藤がありました。

今井麻椰さん

周囲にも私が経営者としてメディアに露出することを快く思わない人は少なくなかったし、私自身も外から見られる自分と現実のギャップがすごく苦しかった。

また、駅弁業界も水産業界も男社会。かつ高齢の方が多いので、見た目が派手な若い女性というだけで偏見を持たれることも多く、ここでも全然相手にされない。

「私には向いていないかもしれない」

メディアから取材の依頼が来る度に、メディアに映る自分と現実のギャップに苦しくなり、食事も喉を通らなくなってしまい、夜も眠れなくなり、心身ともにバランスを崩し続けていました。

そんな生活が1年ほど続き、「もう辞めた方がいいのではないか」と思うことも増えたのですが、もし辞めるならできることを全部やってからにしようと思ったんですよね。

もう少し気を楽にして、自分がやりたいことを全部やって失敗して「やり切ったな」と思って次に進んだ方が新しい未来が開けるかなって。

そこで、自分だからこそできることは何かを考えてみることにしました。そしてたどり着いたのが、「時代に適応することで家業を守る」こと。

10年先を想像すると、家族でデパートに行って買い物する……という生活も変わっている可能性がある。そう考えると、催事場は10年後にはなくなっているかもしれない。

全国の催事場で販売するのは「いかめし阿部商店」の伝統的なスタイルだけれど、この形態がなくなった時に生き残る方法を考える必要がある。

今は全国の催事場に職人が転々として現地でイチから手作りしていますが、家に帰れずすごくハードなんですよね。そうなると、若い人たちもやりたがらない。

将来的な顧客ニーズや事業継承を考えると、伝統をそのまま守り続けるのは難しい。

味や品質は保ちながらも時代に合わせて持続可能な形にしていくことで守る方法を、今検討している真っ最中です。

今井麻椰さん

「時代に合わせて変化することでお店を守る」と一言で言っても、体現していくことは簡単ではありません。

変化することに抵抗がある方もいるでしょうし、風当たりを強く感じることもあります。そんな風に壁にぶつかって苦しい時に支えになっているのが、アナウンサーの仕事。

いかめしの方でつらいことがあっても、カメラの前で笑顔をつくると少し気持ちが晴れるんです。

気付けば7年続けているバスケットボールのリポーターの現場では、真剣勝負のスポーツの世界で頑張っている選手や、けがから復活を遂げようとしている選手……それぞれ苦しみながら闘っている選手たちの姿にも励まされています。

こういうとき、アナウンサーの仕事も続けてきてよかったなと思いますね。

また、アナウンサーの仕事もいかめしに好影響を与えてくれています。

まず、私がメディアでいかめしのことを語ると、それを見ていかめしのことを知った人が買いに来てくれることが増えました。

催事で地方に行くと現地のバスケファンの人が大勢来てくれることも多々あります。またバスケ会場で販売させてもらう、なんてことも。

それまでいかめしなんて全く知らなかった人が食べてくれて、広めてくれる。20代の若い人たちにも、いかめしの魅力を届けられる。

これは私だからこそできたことなのかなと思うし、私がやるべきことなんだと思っています。

自分は広告塔にすぎないと悩んでいたけれど、メディアを通していかめしの魅力を広めるのも、立派な社長の仕事。今は、いかめしとアナウンサー、二つの仕事が良い影響を与え合っているのを感じますね。

今井麻椰さん

「ダメなら辞めればいい」くらいでやってみると、案外うまくいく

今、私らしく新しくやりたいなと思っていることがあります。それは、いかを使った化粧品の開発。

子どもの頃から「イカってなぜこんなにツルツルしているんだろう?」と疑問だったんですよね。なんかお肌に良い成分が入ってるんじゃないかと思って。

最近は化粧品の展示会を見に行って、そこでつながった人たちから情報収集しています。

表現する場所も増やしたいので、オーディションも久しぶりに受けるつもりです。

あとは、女性向けの講演などにもチャレンジしたい。やっぱりアナウンサーやリポーターの仕事は「私の生きる道」という感覚が強いので。

こういう動きに対して冷たい言葉をかけてくる人もいるけれど、自分がやりたいと思うことを諦める必要はないと思うんです。

何十年もたってから「やっぱりあの時やっておけば良かったな」と思った時に、冷たい言葉を掛けてきた人たちはきっともうそばにいない。その時に手遅れになって後悔するのは嫌じゃないですか。

今井麻椰さん

ただ「やりたいこと全部やろう」と思っても、周囲の反応を想像したりダメだったときのことを考えたりすると、一歩を踏み出すのが怖い気持ちはよく分かります。

でもいきなり思い切ったことをする必要はなくて。例えば、興味がある人がいたらメッセージを送ってみるとか、会いたい人に自ら会いに行ってみる、みたいなことでもいいと思うんです。

「できるかな?」で終わるんじゃなく、小さくてもいいから一つアクションを起こしてみる。それが次につながる可能性もあるから。

私がチャレンジしようと思っているイカを使った化粧品開発だって、できるといいなぁくらいの気持ちでとりあえずいろんな人の話を聞いているだけ。

でもこの一歩を踏み出すかどうかで未来は大きく変わると思うんですよね。

アナウンサーも「いかめし阿部商店」の社長も、両方やらせてもらっている今があるのは、過去の自分がこの小さな一歩を踏み出してくれたからこそ

やっていく中で壁にぶつかることもあるけど、「できることを全てやってみてダメだったら辞めればいいや」という気持ちで取り組むと、ダメになる前に何かしら道が開けるものだなと感じています。

自分の無力さに先が見えない日々はつらかったけれど、そんな私でも今こうやって、自分だからこそ発揮できる価値を見つけつつある。

私らしい二刀流は、ここからが本番。これから先も、やれることはすべてやり切ろうと思っています。

今井麻椰さん

取材・文/モリエミサキ 撮影・編集/光谷麻里(編集部)