「“女性だから”と誰よりも思っていたのは私だった」片岡安祐美が一人の“野球人”としてガラスの天井を突き破るまで

甲子園

2021年8月23日は、片岡安祐美さんにとって忘れられない1日となった。全国高校女子硬式野球選手権の決勝戦が、女子野球史上初めて甲子園球場で行われた日だ。

女子高校野球全国大会の歴史は、1997年までさかのぼる。しかし高校球児の聖地・甲子園球場は、約25年間にわたり女子大会で使用されることはなかった。

「女子は甲子園に立てない」

甲子園に憧れて野球を始め、高校時代にはあえて男子野球部に入部した片岡さん。その後萩本欽一さんの目にとまり、社会人野球の世界に入ってからも、甲子園への思いは消えなかった。

そして2021年夏、片岡さんからバトンを受け取った若い選手たちが、その重い扉をこじ開ける。甲子園のグラウンドから甲高い掛け声が響くのを、片岡さんは解説席から聞いていた。

女性がマイノリティーとなる環境では、たとえ能力があっても男性と同じ舞台にすら上がれない人も多い。野球はその典型例だろう。女性の活躍をさえぎる「ガラスの天井」を、「女子野球のパイオニア」と呼ばれた片岡さんは、どのように乗り越えてきたのだろうか。

「女子は試合に出られない」けれど男子野球部に入部

甲子園

片岡 安祐美(かたおか・あゆみ)さん

1986年11月14日生まれ、熊本県出身。甲子園に憧れ小学3年生の冬に野球を始める。2002年、甲子園に出ることを目標に熊本商業高校に進学。この年から4年連続で女子野球日本代表に選定される。05年、茨城ゴールデンゴールズ入団。11年からは監督を兼任。14年には全日本クラブ野球選手権で大会史上初の女性優勝監督に。24年1月、茨城ゴールデンゴールズの女子チームを立ち上げ男女両監督となる。■公式XInstagram

野球好きの父の影響で、片岡さんは物心ついた時からテレビで野球の試合を見ていた。興味を持ったのはプロ野球ではなく「甲子園」。高校球児の活躍を報じる新聞を切り抜き、お気に入りのスクラップブックを作っていたという。

甲子園を夢見て、小学3年生で野球を始めた。中学生になっても情熱は消えず、あえて熊本商業高校の男子硬式野球部に、女性としてただ一人入学を決意する。

片岡さん

男性ばかりのチームメイトに仲間として認めてもらうために、どんなに厳しくても、どんなに時間がかかっても、彼らと同じ練習メニューをこなすと決めていました。

しかし、どれだけ野球がうまくなっても、「女性」というだけで甲子園の試合には出られないことを、片岡さんは入学前から知っていた。知っていながら、なぜ自らに厳しい練習メニューを課したのか。

片岡さん

試合に出られない私にできるのは、チームの士気を高めることだけ。

「試合に出られない安祐美がこれだけやっているのだから、出るチャンスが与えられた自分がもっと頑張らないでどうする」と思ってもらえたら、チームが強くなるだろうなと思ったんです。

だからといって、最初から覚悟が決まっていたわけではない。

実力では男子部員に負けないと気を張っていても、16歳の多感な少女。「女だから」試合に出場できないという理不尽さに葛藤し、野球部の女子マネジャーに泣きながら悔しさを打ち明けたこともある。

試合に出る機会が少なく、自分の成長を感じられずに悩んで涙したことも数えきれないという。

片岡さん

女子野球部がある高校に進まなかったのは、どうしても甲子園に行きたかったから。

自分で覚悟と決意をもってその道を選んだので、葛藤しながらも逃げずにやり通すしかなかったんです。

しかし、熊本商業硬式野球部は甲子園の地を踏むことはなく、片岡さんの夢もかなわなかった。

男性社会での葛藤「監督を辞めて熊本に帰りたい」

甲子園

2014年、第39回全日本クラブ野球選手権大会にてチームを優勝に導く。大会史上初の女性優勝監督となる

その後の片岡さんは、順調に選手としての実力を認められていく。タレントの萩本欽一さんとの出会いも追い風となった。

02年からは4年連続で女子野球日本代表に選出され、05年からは茨城ゴールデンゴールズに選手として入団。6年後の11年からは、選手兼監督としてチームを取りまとめている。

片岡さん

最初は自分が監督なんて、選手たちに申し訳ないと思っていました。指導歴のある男性が監督をやった方が、チームも伸びるんじゃないかと悩んだこともあります。

男性、女性ではなく、常に野球選手として見てほしいと言いながら、自分が一番自分の性別を負い目に感じていたんです

順調に見えるキャリアの裏で、片岡さんは監督という重圧と女性であることを負い目に感じ、うつ病寸前まで追い詰められる。

そして、監督を始めて4年目、「監督辞任」の文字が頭の中で明確になっていく。チーム創設10年目の記念の年だった。

片岡さん

ナイターの練習中に、外野の芝生スタンドに座って、みんなの練習を遠めに見ながら父に電話を掛けたんです。「監督を辞めて、熊本に帰ろうかな」って。

「監督を辞めて、熊本に帰りたい。お父さん、また一緒にユニホーム着て野球やろうよ」

娘の言葉に、父はただ静かに「そうか」と返した。

片岡さん

父は反対しませんでした。ただ、チーム創設10周年となる記念のシーズンまではちゃんとやった方がいいと。

私も、「確かにそうだよね、とりあえず、そこまでは頑張る」と伝えたんです。

今シーズンが終わったら、監督を引退する。そう決心したことで、残りの日々のカウントダウンが始まった。いったん決めてしまうと心は軽い。

バッティングピッチャーとして投球したり、気分転換で打席に立ったりすることで、野球を始めた頃の「野球が好き」という気持ちがよみがえる。次第に気分も晴れて、笑顔も増えていった。

すると、監督である片岡さん自身の変化が、選手たちを変えた。笑顔で楽しそうに野球を楽しむ彼女を見て、選手たちも気軽に声を掛けてくれるようになったという。

いつからか、選手たちから「安祐美監督を胴上げするために頑張ります」という言葉も出るようになる。監督としての残りの日々を決めたことで前向きになった片岡さんを中心に、チームは徐々に一丸となっていった。

結局、片岡さんはシーズンが終わっても、チームの監督を続けることになる。14年、茨城ゴールデンゴールズは全日本クラブ野球選手権大会で3度目の優勝を果たしたのだ。

片岡さん

優勝したら、次はさらに大きな大会の日本選手権で1勝したい、企業チームに勝ってみたい!という野望がどんどん湧いてきちゃって。

ああ、神様は私に野球を辞めさせないんだ、ここから放さないと言っているんだ、そう思いましたね。

「女子野球のパイオニア」ではなく「中継ぎ」

甲子園

片岡さんは、「女子野球のパイオニア」という言葉で形容されることが多い。

「男性は野球、女性はソフトボール」という固定概念が強い時代、大柄な男子に交じってプレーする153㎝の小柄な女性は、多くの注目を集めた。

さらに、野球好きとしても有名なタレントの萩本欽一さんに見いだされ、メディアでの露出が増えたことも、「女子野球=片岡安祐美」のイメージを強くした。

しかし、片岡さんは自身をパイオニアではなく、あくまでも「中継ぎ」にすぎないという。

片岡さん

メディアに取り上げていただくことが多くなり、うれしい反面、女子野球のイメージを悪くしてしまったらどうしよう、という気持ちもありました。

私は決してパイオニアなんかじゃなく、女子野球の先輩たちがつないだバトンを受け取って走っているだけ。

私がメディアに出ることで、先輩たちが必死につないできたものが、良くない方向に向いてしまったら申し訳ないなと、悩んだ時期もありました。

その思いを女子野球の先輩にぶつけると、意外な言葉が返って来た。

片岡さん

「今まで、野球をやってますって言うと、『ソフトボールじゃないの?』って言われ続けてきた。でもあなたのおかげで、女の子でも野球をやってるんだってことが、世間に広がった」と言ってくれたんです。

「私は私で野球を頑張るから、あなたは女子野球を広めるという、あなたしかできない役割を全うしなさい」って。

現在でも片岡さんはメディアに出て、女子野球の認知拡大に貢献し続けている。

そして彼女がつないだバトンを受け、既に次の時代の女性たちが走りだしている。片岡さんが高校野球公式戦への出場を諦め、男子選手たちのバックアップに徹した日々から17年の年月を経て、史上初めて女子高校野球全国大会の決勝が、甲子園の舞台で行われた。

21年夏、片岡さんは、解説席でその歴史的瞬間を見つめていた。

片岡さん

ここにいる子たちはみんな、一度は野球をすることすら反対されてきたはず。

野球をプレーできることが当たり前じゃないと分かっているからこそ、甲子園でのプレーを全力で楽しむ彼女たちに、胸がいっぱいになりました。まさか甲子園に、こんなに甲高い声が響く日が来るなんて

「子どもにプレー姿を見せたい」はパパだけの目標じゃない

甲子園

甲子園を目指した高校時代から、約20年。片岡さんは社会人野球チームの監督になり、女性としても新しいライフステージに突入した。17年に結婚、22年には出産し、現在は1歳の子どもを抱え、監督業をこなしている。

そして24年1月、念願だった茨城ゴールデンゴールズ女子チームを創設した。

片岡さん

今はまだ子どもが小さいので、子育てと監督業を両立できているとはいえません。

子どもを預けるために集合時間に遅刻したり、迎えに行くために早退したり。みんなの理解があるからこそなんとかやっています。

女子野球をめぐる環境も、少しずつ改善しているという。

大会のときには託児所が準備されるなど、女性がプレーしやすい環境が整いつつある。高校や大学での女子野球部数も右肩上がりに増え、15年には全国で19チームだった高校女子硬式野球部数も、23年には60チームまで増加した(全日本女子野球連盟「競技人口推移に関する資料(2023年度版)」)。

一方で課題も残る。中学校では、女子野球の受け皿が十分ではない。小学生は男子に交じってプレーするが、中学生になると体格差や不安定なメンタル面のケアから、男女を分ける必要がある。

高校、大学で女子の硬式野球部も増えてきているが、その間の年代で野球を諦めてしまう女性もまだ多いのが現実だ。

女子野球の発展を担いつつ、片岡さん自身の夢もまだまだ広がっている。

片岡さん

社会人野球の監督としては、もう一度てっぺんを取りたいという目標があります。

野球選手としては、マスターズ甲子園に出てプレーをするという夢もかなえたいです。

かつて活躍した高校球児がOBチームを結成し、当時のユニホームで甲子園球場を舞台に戦うマスターズ甲子園。

高校時代に追いかけた甲子園へのあこがれを、片岡さんはまだ諦めていない。しかし、母になった今、もう一つの目標もできた。

片岡さん

息子が、テレビで大谷(翔平)選手のニュースを見ると、画面に向けてボールを投げるまねをするんです。そして、テレビを指さして、『ママ、ママ』って。

プロ野球選手が、子どもに野球をしている姿を覚えていてほしいから現役を続けるという話をよく聞きますが、それってパパだけの目標じゃないよと思うんです。

ママだって、子どもにプレーを見せるために現役を続けたって、いいじゃないですか

一人の人間として向き合うことで少しずつ変わっていく

甲子園

「『男性に負けたくない』と気負いすぎていたことが一番自分を追い詰めていた」と片岡さんは振り返る。

性別へのこだわりを捨て、一人の「野球人」として選手に向き合ったことで、彼女は壁を乗り越えた。

片岡さん

監督になって3年目に、先輩から「お前が壁を作ってるからみんなが遠慮するんだ」と言われて反省したんです。

「女だから」と性別で縛って勝手に壁を作り、性別に一番とらわれていたのは自分だったんだなと

壁を壊して言葉でのコミュニケーションを取るようにしたら、分かり合えるようになりました。

女性がマイノリティーとされる環境では、「女性だから」「女性なのに」と思われてしまわないよう、必要以上に頑張ってしまう人は少なくない。

かつて同じ悩みを持っていた先輩として、「自分自身を性別でしばってしまっていないか、一度、考えてみてください」と片岡さん。

片岡さん

一人の人間として目の前の人と向き合ってみると、「意外とまわりはそんなことを思っていないんだ」と気付けるかもしれません。

自分で自分を性別でしばらず、純粋にやりたいことを追求していけば、まわりの環境も少しずつ変わっていくのではないかと思います。

文/宮﨑まきこ 取材・編集/石本真樹(編集部)