“いい子”をやめたら自信が持てた――会社員から農家&カフェオーナーに転身した女性に学ぶ、豊かなワークライフを手にする方法
通勤電車に揺られ、組織の一部として働き、家に帰るのは夜遅く。帰宅早々、まともな食事も取らずにベッドに倒れ込む。このまま働き続けていて、いいのだろうか――。
長野で無農薬・無化学肥料野菜を育てながらカフェを運営する有賀恵美さんも、かつてはそんな不安を抱く会社員だった。多くの人が疑問を感じながらも一歩を踏み出せずにいる中で、有賀さんはなぜ方向転換することができたのだろうか。「会社で働く以外の選択肢はないと思っていた」と話す彼女に、今の生き方にたどり着くまでを聞いた。
渓流釣りで目にしたダム工事が「自分の生き方」を考える転機に
IT企業でシステムを手掛けていた20代のころの有賀さんは、先が見えない不安を感じていた。
「当時の私は人が生きていくために必要な知識を全く持っていなくて、生きる力がなかったんです。だから会社がなくなってしまったら、一緒に自分も路頭に迷ってしまう。そんな状態に疑問を持ち始めて、『一人でも立っていられるような人間になりたい』と思うようになったのが28歳のころでした」
最初はあくまで会社で働く道を模索していた。だが、その後を決定付ける契機となったのが、趣味の渓流釣りだった。
「エメラルドグリーンの綺麗な川に、ダム工事で泥が流れ込んできて魚がいなくなる。こういう場面を何度も見て、都会に住んでいると分からないことがたくさんあることを知りました。それまでは学校や親から教わったことが正しいと思っていたけど、必ずしもそうではない。まずは自分の価値観を、自分で一から築かなければダメだと気付いたんです」
そこで、これまでの常識や価値観が通じない外国に渡ることを決意し、お金を貯めてカナダへ留学。1年が経ち、どこでも生活できる自信が付いたころ、目に止まったのが親友からのハガキだった。そこにあった屋久島の写真を見て「ここに行こう」と思い立つ。
「『あ、こっちだ』と頭にひらめくことを、英語で“sign”というのですが、それに従った感じです。そうでなきゃ、カナダにいて何の縁もない屋久島へ行こうなんて思わないですよ(笑)」
直感に従った有賀さんは、屋久島とその近辺の島を転々としながら1年を過ごした。
「屋久島の隣にある、人口170人の口永良部島で、お金がほとんどいらない生活があることを知りました。例えばおばあちゃんの家の屋根の修理を手伝ったら、お茶出してくれて、お土産にお野菜を持たせてくれて、それで終わり。お金を使うのは、税金や電気代くらい。こういう生き方ができるのなら、怖いものなんて何もないと思うようになりました」
食事が変わったら、アトピーと喘息が治った
屋久島での1年が過ぎ、ひとまず東京に戻った有賀さん。留学前にお世話になった会社で1年勤務した後、昔ながらの暮らしを提案する『ブラウンズフィールド』という団体に参加するため、千葉へ。「自然や食に関心の高い人たちから同時期に名前を聞いて、きっと行くべきなんだと思った」ことがきっかけだった。
「東京で働いていたころの私はアトピーと喘息がひどかったのですが、千葉でマクロビオティックの食事を取る生活を1年続けたら、治ったんです。アレルギーなどの疾患が、全部食べ物から来ていることを実感しました」
自分の体をないがしろにしていたことを痛感した有賀さんは、「無農薬・無化学肥料で農作物を育てて、自分が食べるものはできるだけ自分の手でつくろう」と決意。プライベートで親交のあったBeeHive Workers社長の濱田史郎さんがその思いに賛同し、同社が出資をすることになった。こうして有賀さんの農業生活がスタートする。
「最初のころはとにかく大変でした。八反の田んぼをほぼ1人で見ていて、なけなしのお金で耕運機を買いましたが、ほとんどは手作業。収穫したお米は売れたけど、わずかなお金にしかならない。幸い食べるものには困らなかったけど、出資してもらっているお金はほとんど家賃で消えてしまう。貯金を切り崩し、カードローンも限界……という状態で、カフェを始めるまでの5年間はギリギリアウトな生活をしていました(笑)」
その姿を見ていた濱田社長も「いつまで続けられるかな、という感じだった」と振り返る。だが、そのような過酷な状況にあっても、有賀さんに農業を辞めるという選択肢はなかった。
「やらなければいけないものだと思っていました。正しい道だという思いもありましたし。それに、農業を始める前に1年間乗馬クラブで働いていた経験があって、そっちの方がはるかに体力的にはきつかったんですよ。だから、『これは農業の方が楽だ』と(笑)」
レールを外れた先にあった、幸せな生活
思うまま、自由に生きているように見える有賀さん。多くの女性たちが一歩を踏み出せずにいる中、なぜここまで思い切りよく道を切り開いて来れたのだろう?
「私、いい子だったんですよ。親のいうことをちゃんと聞いて、レールからはみ出さずに生きてきました。東京に出て会社員として働いていたのも、それが普通だと思っていたから。だから会社を辞める時、レールを外れてしまう不安はすごくありました。でも、試しにはみ出てみたら、なんてことはない。どうにかなるものなんです」
農業を始めて5年が経った時、自分で作った無農薬・無化学肥料の野菜を使用した料理を提供するカフェを開店。思い描いていた生活を手にした有賀さんは「やりたいことがたくさんあって、休んでる時間がもったいない」と微笑む。
「そう思えるようになったのは、生活が充実していることはもちろん、食事が変わったことが大きいと思います。先ほども言った通り、喘息とアトピーが治ったのは食事のおかげだし、日焼け止めを塗らなくても日焼けをせず、シミもできないのは、代謝がきちんとしているから。食事の取り方で、体はどんどん変わる。そして体が健康であれば、精神的にも元気になれるものなんです」
働く女性の中には、せわしない毎日に翻弄され、ご飯を作る余裕もなく、コンビニの惣菜や弁当で済ませてしまう人も多い。だが、「手っ取り早いものを食べていると、いつかひずみが出る」と有賀さんは警鐘を鳴らす。
「例えばコンビニのご飯には、さまざまな添加物が入っていて、中には体に悪影響を及ぼすものもある。そういうことを知った上で選んでいるのではなく、知らずに食べている人がほとんどだということが、日本の食の課題。だから今後はこのカフェを、食を考え直す場所にしたいと思っています。その入り口として、来年からお手伝いをしてくれる子持ちのお母さんを増やす予定。カフェを通じて食に興味持ってもらい、手伝ってくれたお礼にランチをご馳走し、お野菜を持って帰ってもらう。そしてここで学んだことを活かして、家族に健康な食事を作ってもらう。まずはそういうサイクルを作りたいですね」
子どもを持ったことをきっかけに、食事を見直す母親は多い。そんな女性たちが気軽に来られる場になればといいと、無農薬・無化学肥料の野菜で作られているランチは、スープ、前菜盛り合わせ、パスタやご飯ものにお茶が付いて1,000円と低価格。「あまり知られてしまうと常連さんが来られなくなってしまうから」と、カフェの存在はオープンにしていない。今後も規模を大きくすることはしないという。
「もういつ死んでもいい。そのくらい、私は今の生活に満足しています。やりたいことを実現できたのはもちろん、それまでの過程で悩みや疑問はほとんど解決できたし、自分なりの価値観を持てるようにもなった。どんな話題でも自分の話ができるし、人と比べてモヤモヤすることもない。今は本当に幸せです」
有賀さんがそう思えるのも、多くの人が放っておいてしまいがちな「このままでいいのか」という内なる声に向き合い、さまざまな葛藤を乗り越えてきたからこそ。学校卒業後、就職し、当たり前のように会社で働く。そんな常識にとらわれず、自分の直感を大切にしながら、迷う気持ちから逃げない。そうしてもがきながら歩んでいった先に、きっと豊かな人生が待っているのだろう。
取材・文/天野夏海(編集部) 撮影/大島 哲二