「頑張り過ぎないで」という言葉が嫌いだった。お風呂にゆっくり浸かった、あの日までは

9周年特集

いつも真面目に、頑張り過ぎてしまう私たちだから――。コロナ禍の今こそ見つめ直したい、擦り減らない働き方、生き方を実践するヒントとは?

今回は、フリーライター横川良明が綴るエッセイをお届けします。

午後2時。家の中でできる、喧騒からの逃避行

バスタブいっぱいに張ったお湯に、入浴剤を振りまく。たちまち透明だったお湯が若草色に変わって、一緒に僕の心もすっと淡い色合いに染められていく。

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浴槽用のトレイには、スマホとスポーツドリンク。本当はスパクーリングワインを開けたいところだけれど、この後も仕事が控えているから、それは我慢。

クタクタになった体を湯船に沈めると、炭酸の泡が弾けるように疲れが吹き飛んでいく。とても今が真っ昼間だなんて信じられない。浴室の壁の向こう、外の世界では多くの人が働いていて、飛ぶように時間が流れている。

引っ切りなしに続くチャット。分刻みでやってくる電車。靴音と舌打ち。そういう喧騒と呼ばれるものから一番遠い場所で、お湯に浸かってのんびり足を伸ばしている自分を思うと、ちょっとだけ富豪になったような気分になる。

思わず鼻歌が出そうになる代わりに、スマホのアプリを立ち上げて、お気に入りのタイドラマを再生した。

最近、真っ昼間からお風呂に入るのにハマッている。短くても1時間。調子が良ければ2時間くらい長湯をする。

当然、世の中の多くの人は働いている時間なので、スマホには次々と通知が飛んでくる。でも気にしない。一切スルー。電話も出ないし、メールも返さない。

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下町の食堂みたいだ。「只今休憩中」とプレートを扉に下げて、心のままに自堕落に過ごす。いけないことをしている背徳感と、その後ろめたさに舌を出して踵を返す冒険心が、入浴剤以上に心のコリをほぐしてくれる。

優秀な人はメールにすぐ返信する。そんな呪いに雁字搦めだった

少し前までは、とてもじゃないけれど、昼間から長風呂をする余裕なんてなかった。独立10年目のフリーライター。ありがたいことに、仕事は多い。

書いても、書いても、終わらない原稿。宮本武蔵にでもなったつもりで、降ってくる原稿を次々と切り払ってみるけれど、まるでゾンビのように新しい敵が湧いてくるので武蔵もお手上げ。

平日の平均睡眠時間は4時間を切った。楽しみにしていた友達との飲み会もリスケをした。パソコンの使い過ぎで、肘から下が慢性的な熱としびれを帯びている。

PC

そういえば、朝起きてからまだ顔も洗っていない。1日の切れ目がほとんどなくて、原稿を書き疲れたらベッドに潜り込み、そのまま気を失うように眠りに落ち、目覚めたらその瞬間から、早く次の原稿を書かなきゃと追い立てられる。

誰が見てもオーバーワークだ。でも、その頃の自分はそれをそこまで嫌だと思っていなかった気がする。いや、ちょっと違う。本当は、休みたいと思っていた。どうしてここまで働かなきゃいけないんだろうと、責め苦を負っているような気持ちだった。

だけど同時に、求められていることに対する快感もあった。書けば書いた分だけ名前が売れて、やりたかった仕事に近づいていく。その手応えが、鎮痛剤になっていた。

フリーランスの世界では、売れていることが正義。隙を見せれば、すぐ誰かが自分の席についている。やっとの思いで掴んだふかふかの椅子を誰かに渡してなるものか。そんな意地汚い執着心から、来た仕事は全部引き受ける。

結果、どんどん自分の時間はなくなる。Wordにびっしりつまった文字は、なんだか自分の皮膚からはがれ落ちた鱗みたいだった。

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フリーランスに転じる前から、一生懸命が長所みたいなところは割とあった。

前職は、求人広告の営業。「ビル倒し」と称して、そのビルに入っているテナントに片っ端から飛び込んで、電話営業は1日100件が基本。泥臭さを美徳とする社風で育った僕はそこで根性論的な気質を身につけ、存外それが嫌でもなかった。

毎日が学園祭の前日みたいな空気は楽しかったし、実際そこで培った気力と体力はフリーランスになった後も大いに役立った。

優秀な人はメールにすぐ返信する。締め切りを前倒しして納品することで、相手の期待値の上をいく。世の中にはそういう言説がまかり通っていて、僕はそれを生真面目に守っていた。

たぶん鵜呑みにしていたわけじゃないんだと思う。ただ、誰かがつくった根拠不明のデキる人の条件に外れるのが怖くて、Gmailに通知が来るたび、まるで鞭を打たれた馬のように慌てて即レスをした。

「頑張り過ぎないで」と言われるたびに、僕は意固地になっていた

だからずっと「頑張り過ぎないで」というメッセージが嫌いだった。

ワークライフバランスという言葉が浸透し始めた頃から、いろんなメディアで頑張り過ぎるのはよくないというメッセージが発信されるようになった。

仕事も、家事も、ちょっと手を抜くくらいがちょうどいい。もっと自分を大切にしてあげよう。そんな柔らかい言葉にふれるたび、逆に僕の心は頑なになった。

たぶん自分のやり方が否定されたような気持ちになったからだと思う。

ライター 横川良明コラム

頑張ることが正解の社会でずっと生きてきて、頑張ることでそれなりの成功を得てきた。それを今さら「頑張り過ぎないで」と言われても、どうしていいか分からない。

実際、社会で成功している人はみんな常人では考えられないような努力を積んで今の地位がある。何か一つのことをガムシャラになってやり切った経験がある人とない人では、人間としての強さが違う。

「頑張り過ぎないで」と言われるたびに、今頑張らないでどうするのと意固地になり、巷に広がるゆるくて柔らかい思想を仮想敵みたいに捉えるようになっていた。

ある日、僕はどうしてもお風呂に浸かりたくなった

そんな自分を変えたのが、お風呂だった。

うちの家には、成人男性が十分足を伸ばせるくらいに大きなバスタブがある。部屋探しの時も、そのひときわ大きなバスタブが決め手の一つになった。

だけど引っ越してから一年余り、まだ一度もそのバスタブを使ったことがなかった。寝る間も惜しむような毎日で、ゆっくりお風呂に浸かる時間なんてあるわけない。

その時間があれば、3000字の原稿が書けるし、請求書もつくれる。こなさなきゃいけないその日のTO DOを考えれば、湯船に浸かるなんて優先順位は最下位だ。というか、リストにさえ上がってこない。

けれど、その日、朦朧とする頭を目覚めさせるために熱いシャワーを浴びていると、ふいに水垢一つないバスタブが目に入った。

つるんという音がしそうなプラスチックの質感。その時、まるでシャボン玉が割れるみたいに、自分がこのバスタブにお湯を張って足を伸ばしているイメージが脳裏をよぎった。

それは、とても甘い誘惑だった。真夜中のラーメンのような、炎天下のバニラアイスのような、至福の欲望。足をかすめ取られたみたいに、僕はそのイメージから抜け出せなくなって、気がつけばバスタブの蛇口をひねっていた。

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どうどうとほとばしるお湯が、バスタブを満たしていく。その湯位が高まるたびに、僕の心まではちきれそうになる。

目一杯お湯を溜めたら、まるで知らないバーの扉を開けるように、そっと足をお湯に潜らせる。水かさが増して、バスタブからお湯が溢れ出る。

その勢いに押し出されるように、もう片方の足をまたがせ、一気にお尻まで湯船の底につける。皮膚の表面が、熱くなる。そしてその熱が駆けめぐるように骨まで染みる。無意識に止めていた息が、吹き出すように口からこぼれる。

あまりの気持ち良さに、めまいがしそうだった。一体どこに隠れていたのか分からないような生命感が、丹田の下あたりから花が開くように全身へと行き渡る。撫でるように手のひらを腕に滑らせ、太ももの裏からふくらはぎを揉みしだく。

浴室に立ちのぼる湯気を見上げると、本当はそんなことないのに、なんだか天井がとっても高く見えた。

そして、気づけば僕は泣いていた。涙が溢れて止まらない。長い間、凍らせていた何かが、お湯の温度に溶かされたように、毛穴から吐き出てくる。ひとしきり泣いて、ようやく気づいた。自分がもうボロボロに疲れ切っていたことに。

お湯に浸かる余裕さえない生活に、とっくに心は枯れ果てていた。

人間は、24時間戦えない

そこから僕は、入浴の質を上げるためにいくつかのグッズを買い集めた。そして、自分なりにルールを決めた。

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どんなに忙しくても、ちゃんと湯船に浸かること。毎日は難しくても、週に1回ぐらいはそうやって体と心を休める時間をつくること。お風呂に入っている時間は、一切仕事のことは考えない。電話もメールも無視していい。

そうしたら驚いたことに、別に即レスなんてしなくても大して仕事に支障は出なかった。もちろん相手からすれば早く返事が来るのに越したことはないんだろうけど、だからと言って何も一分一秒を争う話じゃないし、スピードがすべてじゃない。

そこで勝負をし続ける限り、すり減るのは自分自身。もっと違うところで価値を示せるのであれば、それで十分だと分かるようになった。

Googleカレンダーに入浴タイムを入れるため、仕事の量も少し減らした。手放したそのチャンスは他の誰かに行き渡り、それをいつか悔しく思う日が来るのかもしれない。その時が来たら大いに悔しがろう。

でも今は、「只今休憩中」とプレートをかける時間が自分には必要なんだ。人間は、24時間戦えない。そんな当たり前のことが、ようやくちゃんと実感できた。

「頑張り過ぎない」ことは、頑張っていた自分を否定することではない

今では、あれだけ拒否してきた「頑張り過ぎないで」というメッセージも、まあそうだよねと素直に頷けるようになった。

頑張り続けることで成功を掴んできた自分が、頑張ることを一時休戦することは、敗北なんだと思っていた。それまでの自分のやってきたことを否定することなんだと思い込んでいた。

ライター 横川良明コラム

でも、別にそういうことじゃない。24時間戦い続けた自分も、それはそれで正しい。その時には、そういう時間が必要だった。同じように、ペースを落とすこともまた大事。

自分で自分にバトンを渡すようなものだ。短距離走のように全力で走ってくれた自分がいたから、思ってもみないところまで来られた。

その自分に「ありがとう。お疲れさま」と声を掛け、新しい自分がバトンを受け取る。今度はもう少しピッチを落とし、流れる景色を眺めるくらいの余裕を持って走ってみよう。

「頑張ること」と「頑張り過ぎないこと」を二項対立のように考えていたけど、別に人間はどちらか一色というわけではないのだ。

頑張る自分も、頑張り過ぎない自分も、それぞれ自分の中に存在して、今は頑張り過ぎない自分の出番。またいつか全力ダッシュしたいときがやってきたら、そのときは頑張り屋の自分にもう一度バトンを渡せばいい。

そう考えられるようになって、ようやく「頑張ること」と「頑張り過ぎないこと」のバランスが自分でとれるようになった。

ライター 横川良明コラム

「頑張り過ぎないで」は決して頑張ることを否定しているわけじゃない。

「頑張り過ぎないで」と言われるたびに、つい肩肘を張ってしまっていたあの頃の自分は、今思えば少し窮屈そうだけど、そんな頑張り屋の自分が積み立ててくれた頑張り貯金のおかげで、こうしてのんびり贅沢ができる。

過去の自分を否定したり捨てたりしなくても、人は自然に変わっていけるのだと、30代も後半を迎えて僕はやっと気づくことができた。

時間はお昼の2時を過ぎたところ。外はすっかり冷えてきて、そろそろコートがないと北風を凌げない。

そんな中、僕はバスタブに湯を張る。今日は買ったばかりの入浴剤を試す日だ。手元には、大好きなアーモンドチョコレート。締め切りの近づいている原稿と、たまった通知はしばらく忘れたふりをする。

プレートを「営業中」から「只今休憩中」にひっくり返す。その瞬間、ほんの少しだけ自分が不良になれた気がして、くすっと笑った。


【執筆者プロフィール】
横川良明(よこがわ・よしあき)
1983年生まれ。大阪府出身。番組制作会社のAD、求人広告の営業を経て、2011年よりフリーランスのライターとして独立。現在、ドラマ、演劇、映画を中心に多数のインタビューやコラムを手掛けている
Twitter:@fudge_2002