32歳で看護師から競輪選手へ。「安定志向」だった伊藤のぞみの決断のハードルを下げた二つの行動

連載:「私の未来」の見つけ方

生き方も、働き方も、多様な選択肢が広がる時代。何でも自由に選べるってすてきだけど、自分らしい選択はどうすればできるもの? 働く女性たちが「私らしい未来」を見つけるまでのストーリーをお届けします

伊藤のぞみさん 競輪中

「安定しているから」という理由で看護師の道に進み、11年勤続。しかし、突如29歳で全くの未経験だった競輪の世界に飛び込んだ伊藤のぞみさん。

「競輪選手になってから、『病気でもう走れなくなるかも』という恐怖を味わったこともありますし、この間も落車してケガをしたばかり。看護師と比べるとやっぱり、将来どうなるか分からない不安定さはあります」

成功する保証はない。長く続けられるかどうかも分からない。人一倍、安定志向だった彼女はなぜ、そんなアスリートの世界へと踏み出すことができたのだろうか。

伊藤さん

伊藤のぞみさん

北海道・函館市生まれ。高校卒業後は准看護師として看護師として11年病院に勤務。28 歳で自転車の練習をスタートし、ガールズケイリンの選手育成プロジェクト「ホワイト ガールズ」の一期生に。2017年に日本競輪選手養成所を受験したものの2次試験で不合 格。その後、看護師の仕事を辞めて自転車に専念し、31歳で合格。32歳でデビューを果たす

「大丈夫、できる」の声に押され、11年続けた看護師を辞めた

もともとあまり裕福な家庭で育ったわけではなかった私は、自然と「安定した職」を求めるようになりました。

家族の勧めもあって選んだ仕事は、看護師。高校を卒業してから11年ほど、29歳まで続けました。

やりがいもあったけれど、安定を求めて、また人から勧められて就いた仕事だったので、どこかやらされている感があったというのが正直なところ。

そのうち人間関係にも疲れ始めて、ストレスが体調にも出るようになってしまって。その頃からですね、ぼんやりと転職を考えるようになったのは。

ただこの時はまだ、まさか自分が競輪選手の道にキャリアチェンジするとは夢にも思っていませんでした。

伊藤のぞみさん 看護師時代

看護師として働いていた頃の伊藤さん

競輪との出会いは26歳の頃。競輪好きの友人に函館の競輪場に連れて行ってもらったことがきっかけでした。

その時は、スポーツ観戦として楽しいな、かっこいいなと思っただけだったんですが、その約2年後に女性選手による競輪『ガールズケイリン』が始まって。

SNSでガールズケイリン選手育成の広告を見つけて、「実際に乗ってみたら楽しいかもな」なんて趣味感覚で応募してみたんです。

そうして参加した『ガールズケイリン』プロジェクトで出会ったのが、後に私の師匠となる薮下昌也さん。軽い気持ちで参加した私に「本格的に選手を目指してみないか?」と声を掛けてくれました。

当時はちょうど転職を考え始めた頃でもあったので、「なれたらいいなぁ」と心が揺れて。とはいえ、金銭面は不安だったので、看護師と両立しながら練習を始めてみることにしました。

伊藤のぞみさんの師匠である薮下昌也さん(写真右)

伊藤のぞみさんの師匠である薮下昌也さん(写真右)

選手を目指すには、まずは日本競輪選手養成所に入るための試験に合格しなければいけない。

仕事と両立しながら練習時間を確保するのは本当に大変でした。朝4時に起きて、1~2時間自転車に乗った後に看護師の仕事へ。仕事が終わったらまたトレーニング……という毎日。

そうして試験に挑んだ私ですが、結果は不合格。この時諦めて、また看護師の仕事に専念するという選択肢もあったのですが、1次試験は通過していたので、なんだか諦めが付かなくなってしまって(笑)

もう看護師の仕事は辞めて、競輪の練習に全力投球してみよう。もう1回だけチャレンジしてダメだったら諦めよう──

もちろん、経済的な不安はありました。でも、師匠が「大丈夫、できる」「お金で困ったら俺に言え」と言ってまで背中を押してくれたので、その言葉を信じてみることにしたんです。

こうして私は、11年続けた看護師の仕事を辞め、本格的に競輪の道へと進み始めました。

「やりたいことで稼ぐ」経験がもたらした変化

2度目にチャレンジした試験は見事合格。晴れて競輪選手としての道を歩み始めた私ですが、選手になってからの生活も決して順風満帆ではありませんでした。

病気やケガで走れなくなったり、コロナ禍でレースが開催されなかったり、「この先どうなるんだろう」という不安に駆られたことも少なくありません。

それでも、競輪選手になったことを後悔したことは一度もないんです。

全部含めて心の底から「楽しいなぁ」と感じられるし、「人間やってるなー」という感じ。壁にぶつかって悩んだり、その壁を乗り越える喜びを感じたり……という経験が人生を楽しくしてくれる。

あのまま看護師を続けていたら、安定はしていたと思うけど、今よりも人生を楽しめていなかったんじゃないかなと思います。

最近の私は、「スポーツ選手にケガは付きもの」「先行きが見えなくなっても、きっと何とかなる」と楽観的に考えられるようにもなりました。

競技に励む伊藤のぞみさん

看護師だった頃の私は、意見があっても言えなかったし、人と関わることも得意ではなかった。そもそも自分の意志もなかったように思います。ただただ働いてるだけ。競輪選手になってから、自分の内面も大きく変わったのを感じます。

この変化をもたらしてくれた理由はたくさんありますが、一番大きいのは「やりたいことをやって稼ぐ」経験かもしれません。

もともと安定志向だった私にとって、やっぱり「お金」はすごく大事で。高校を卒業した頃は「安定した仕事に就く」というレールしかありませんでしたが、自分が本心から選んだ道で稼げるようになった。

それができた今、初めて“自分の人生を自分で選ぶ”ことができているように思います。

競輪選手は一生続けられる仕事ではありません。それでも、これからもできることはきっと増えるだろうという自信も付いたし、今後の人生も自分で選択していけるんじゃないかなと思っています。

この仕事観の変化は、競輪選手にチャレンジして得た、一番大きな財産かもしれません。

自分の道を決めるのが怖いなら、誰かに手伝ってもらえばいい

29歳の時に、看護師を辞めて競輪選手の道へと踏み出すことができて本当によかったと、今心から思っています。

安定志向だった私が、30歳目前でばくちとも思える選択を取れたのは、周囲の人にたくさん相談して「ポジティブな声」に流されることができたから

師匠だけでなく、競輪選手のOBOGや友人は「できる、できる!」「頑張れ!」と前向きな言葉を掛けてくれました。

そういう声を聞いていると、できるような気がしてくるんですよね。

競輪を伊藤さん

昔は自分の意志がなくて受動的な人間だったけれど、だからこそ周囲の人たちのポジティブで楽観的な意見に流されることができたのかもしれません。

前向きな方向であれば、流されるのも決して悪いことではないですよね

もちろんポジティブな言葉を掛けてくれる人ばかりではありません。中には、「29歳で競輪選手になれるわけないじゃん」「どうせ無理だから、今の仕事を頑張りなよ」と言う人もいました。

安定志向だったからこそ、こういう言葉で踏みとどまってしまう可能性もあったとは思います。「やめておきなよ」 というのは私を心配して言ってくれていることですしね。

ところが、逆に「やってやる!」と火がついた(笑)

それは、逃げ道を作りながら、小さく、一歩ずつ踏み出していったからかもしれません。

「看護師の仕事をしながら趣味でやるならいいか」
「看護師を辞めても、資格はあるしまたいつでも戻れるか」

覚悟を決めて大きく一歩を踏み出すのではなく、このくらいの一歩を重ねていけば怖くない

だからもし今、かつての私のように「やりたいことがあるけれど踏み出すのが不安……」と迷っている人がいるのなら、まずは不安じゃない範囲から始めてみてほしいなと思います。

そして、周りの人を頼ればいい。一人で抱え込まず、周りの人たちに相談すれば、不安を取り除くアドバイスをしてくれる人もきっといるだろうし、その上で背中を押してくれる人もいるかもしれません。

自分のことは自分で決めなきゃいけないけれど、決断するのが怖いなら「周りの人たちに背中を押してもらう」という頼り方をしてもいいんじゃないかな。それでやりたいことを実現できたら、その時に、恩返しすればいいと思います。

私は友人から「勇気をもらえた」と言ってもらえることもあるんですが、私が自分らしい道を切り開けたこと自体が恩返しになることもあるんだな、と感じています。

競輪を伊藤さん

この先のことはまだ分からないけど、走れなくなるまで競輪は続けたいと思っています。やっぱりこの仕事が好きなので。

直近の目標は、優勝ですね。地元の函館で勝てたらうれしいなと思います。

競輪選手としてお金をためて、いつか走れなくなったら、ボランティアなど人のためになる仕事をするのもいいかな。

安定を求めてたどり着いた看護師の仕事に物足りなさを感じていた時期もあったけど、今振り返ってみると、「人のためになる仕事」は好きだったんですよね。それは時間がたった今だからこそ、気付けたことかもしれません。

だから、いつかまた、そんな仕事に就くのもいいなと思っています。今度は流されてではなく、自分の意志で。

取材・文/モリエミサキ 写真/伊藤のぞみさんご提供 編集/光谷麻里(編集部)