日本初の「匠」女子を目指す!「NISSAN GT-R」のエンジンを手組みで作る女性の“職人魂”/日産横浜工場 大竹由希子さん
日本の職場の多くは未だに“男性社会”だと言われている。そんな中、職場にどう馴染めばいいのか悩んだり、働きにくさを感じている女性も少なくないのでは? そこでこの連載では、圧倒的に男性が多い職場でいきいきと働いている女性たちにフォーカス。彼女たちの仕事観や仕事への取り組み方をヒントに、自分自身の働き方を見つめ直すきっかけにしてみよう!
日産自動車を代表する高級スポーツカー『NISSAN GT-R』。その圧倒的な加速力を支えるのは、車の心臓部であるV型6気筒ツインターボエンジン。570馬力を誇るこの超高性能エンジンが、実は機械ではなく、人間の手によって組み立てられていると知ったら、多くの人が耳を疑うに違いない。
その驚きの舞台となるのが、同社発祥の地にある日産横浜工場。2007年の発売以来、『GT-R』のエンジンはここで生産されている。同工場で働くスタッフは約1900名。その中で、『GT-R』のエンジン組み立てに携わることができるのは、わずか5名。選ばれし熟練技能工を、同社では敬意をこめて「匠」と呼ぶ。そして、その「匠」候補生として日々技術を磨いているのが、大竹由希子さん(28)だ。
匠候補生は、現在5名のみ。しかも、女性は大竹さん含めて2名だけだ。まだ、「匠」の称号を得た女性はいない。今回は、自動車製造という男社会でひたむきに駆け抜けるヒロインの姿を紹介する。
溶接作業も旋盤も楽しい。「女の子だからと特別扱いされるのは苦手なんです」
横浜工場内にはクリーンルームと呼ばれる小さな作業室がある。金属の熱膨張を防ぐべく、室温は常に23度を維持。塵や埃が混入しないよう、こまやかな気圧調整も行われている。そんな特別な空間の中で、『GT-R』のエンジンはつくられているのだ。1基、1基、「匠」の精緻な手作業によって。
1基のエンジンを組み立てるのに必要なパーツは375個。所要時間はおよそ5~6時間。ものづくり大国・日本の粋を象徴したような場所で、「匠」たちは今日も粛々とエンジンと向き合っている。
「小さい頃からモノづくりが好きだったんです。そこで、中学を卒業した後は工業高校へ。約40人のクラスで女子はたった3人という特殊な環境でしたけど、全然気にならなかったですね。むしろ授業が楽しくて、夢中で旋盤や溶接作業をしていました」
そう快活に自身のバックボーンを語る大竹さん。カラッとした夏の太陽のような笑顔と、耳元に光る大ぶりのピアス。健康的でマニッシュな印象の大竹さんだが、昔から「男の人に負けたくない」という気持ちは人一倍強かったのだそう。
「高校時代は陸上部に入っていましたが、当時、女子部員は私だけ。練習メニューも男子と同じで、一緒に腕立てやストレッチをしていました。でも、どちらかというと私はそっちの方が嬉しい。女の子だからと特別扱いされるのは苦手なんです」
そんな大竹さんが、車作りの道を選んだのは、高校の先生の薦めから。見学で訪れた横浜工場で、小さな興味は将来の夢に変わった。
「男の人と肩を並べて働く女性社員の姿を見て、心底『カッコいいなあ』と思ったんです。私もあんな風に男性に負けないくらいカッコよく働きたい。その憧れが決め手になりました」
1000分の1ミリの誤差を追求する。機械を超越した「匠」のスゴ技
18歳で踏み出した“職人”への道。その頃から『GT-R』のエンジン組み立てに関わることが目標だった。最初の6年間は、完成したエンジンのテスト・検査に従事。そこから、いよいよ試作エンジンの組み立てへ。自分の手でものを作る喜びに没頭し、とにかくしゃにむに腕を磨いた。
その熱意と丁寧な仕事が認められ、16年2月、約150人のエンジン課の正規従業員の中から匠候補生に抜擢された。年齢的にも、キャリアの面でも、自分が一番若い。「私でいいのかな」、一瞬不安が頭をかすめたが、それ以上に憧れだった『GT-R』に触れられる喜びが勝った。以来、大竹さんは勤続30年超の熟練スタッフに教えを乞いながら、「匠」への道を一歩ずつ前進している。
「初めて先輩の作業を見たときはビックリしました。流れが体に染みこんでいて、一切動きに迷いがないんです。どうしてこんなに早く手を動かすことができるんだろうって、その鮮やかな手つきにただただ見とれていました」
そもそも名車『GT-R』のエンジンはなぜ手組みなのか。機械の方がよっぽど手間も時間もかからないと考えるのが一般的な意見だろう。だが、究極の走りを追求する『GT-R』にはわずかな誤差も許されない。特に「匠」の技が光るのが、「バルブクリアランス調整」と呼ばれる作業だ。これは、カムシャフトとバルブという2つの部品の間隔を計測するもの。この隙間が適正でなければ、『GT-R』本来のベストな走りが実現できないのだという。だが、その適正の精度が桁違いだ。わずか数ミクロン、つまり1000分の1ミリという範囲まで徹底的に追求する。いかに機械と言えど、1000分の1ミリの差まで正確に測定することはできない。そんな極小なズレを、「匠」はシックスネスゲージという工具を隙間に差し込み、自らの“手の感覚”で調整する。
「一番苦労したのが、このバルブクリアランス調整です。最初のうちは何度先輩にチェックしてもらっても、何が違うのか全然分からない。やっとその感覚が掴めるようになったのは、本当にごく最近のこと。それまでもう数え切れないくらい何度も何度も実践を積んで、先輩から“感覚”を叩きこんでもらいました」
『GT-R』のエンジンには、組み立てた職人の名が刻印されたネームプレートが取り付けられている。その権利を有するのは、日産自動車の中で5人の「匠」だけ。女性で、自らの名をエンジンに刻んだ者はまだ誰もいない。
「いつかは私もと思いますし、夢ですね。でも、今はそれよりも自分の腕を磨くのが第一。まだまだ知識面で不足しているところがいっぱいある。同僚から何を質問されても答えられるような技術者になることが、今の私の目標です」
始業の約2時間前に出社して車の中でリラックス
人の命を預かる「匠」の仕事に“駆け込み出社”はあり得ない
説明するまでもなく、自動車は安全第一。その生産に携わるスタッフたちには、自動車に乗る人たちの命が託されている。万一のミスも許されないシビアな仕事に就く大竹さんには、仕事を始める前に必ず実践するルーティーンがある。
「起床は朝5時ちょうど。そこから支度をして5時50分に家を出発。6時10分に工場に着き、そこから始業の8時までの約2時間は車の中で1人リラックスしながら、徐々に自分のギアを仕事モードへと切り替えていきます。作業の前にドタバタしたり、予定外のことにアタフタするのがあまり好きじゃないんです。それが仕事中の集中力を欠くことにつながるので」
人の命を預かる技能工の辞書に、「駆け込み出社」の文字はない。事前にたっぷり時間をとり、身も心もリラックスさせることで、1000分の1ミリを感知する集中力を研ぎ澄ませる。
同工場では約1900名のスタッフが働いているが、現在、女性スタッフは約60名。大竹さんも同期で女性は6名だけだったと言う。しかし、「女性だからと言って苦労したことは特にない」とさっぱりした表情だ。
「強いて言うなら入社した当初は、女子トイレが少なくて困ったことくらい(笑)。今はそれもだいぶ改善されました」
そう言って笑う。女人禁制のイメージが強い自動車製造の“職人”世界だが、むしろ技術に男女は不問。性別に関係なく、公正に評価を得られる世界だと断言する。
「大切なのは、車が好きかどうかです。車が好きなら乗る人の気持ちも想像できるし、命を預かっている重みも自分ごととして考えられる。男くさいイメージがあるかもしれませんが、イメージだけで自分の好きな仕事を諦めるのはもったいない。性別なんか関係なく、一技術者として皆が刺激を与え合える環境がすごく心地良いです」
そうきりりと前を向く。腕さえあれば、何十年でも第一線で働けるのが技術者の強み。男女関わらず生涯働くことが前提の今の世の中で、「匠」を目指す大竹さんの背中は、一生食べていけるスキルを求める現代女性の新しいモデルの1つと言えるだろう。
取材・文/横川良明 撮影/赤松洋太
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