「お米によって救われた」摂食障害だった元新聞記者の人生を変えた米への情熱

立ち直る、立ち上がれる、何度でも。
再生する女たち

人生100年時代。長い長い人生は、楽しいことばかりではない。時には「もう無理」と嘆きたくなるような、つらい時期もあるかもしれない。でも、私たちは必ず、立ち直ることができる――。それを証明してくれる、女性たちの姿を紹介しよう

いい仕事がしたい。しっかり、ちゃんとやりたい。

一生懸命で真面目な人ほど、頑張りたい気持ちで自分を追い詰めてしまうことがある。”お米ライター”として活動する柏木智帆さんも、かつてはそんな女性の一人だった。今でこそ、どんぶりご飯をもりもり食べる柏木さんだが、20代のころは摂食障害に苦しんだ。「お米によって命がつながった」と笑って話す彼女は、どのように再生していったのだろう。

お米ライター

お米ライター
柏木智帆さん

元神奈川新聞記者。お米とお米文化の普及拡大を目指して取材活動をする中、生産の現場に立つために8年勤めた新聞社を退職。2年にわたって千葉県で無農薬米をつくりながらおむすびのケータリング屋を運営。2014年秋からは消費や販売に重点を置くため都内に拠点を移して「お米を中心とした日本の食文化の再興」と「お米の消費アップ」をライフワークに活動

「自分の中身を浄化したい」
食べられるものが減っていく中で、お米だけは食べられた

私は現在、フリーランスの“お米ライター”として活動しています。大学を卒業してからの8年間を新聞記者として過ごし、入社4年目から米農家を取材するようになったことが、お米に興味を持ち始めた原点。お米って、ただの農産物ではないんですよ。季節行事には必ず米料理が登場し、地形やコミュニティーが生まれる背景には稲作がある。日本文化の根っこだと思ったら、「お米ってすごい!」と、どんどん熱くなってしまった(笑)。もともと新聞記者になった動機も、知的好奇心が強かったからなんです。

そうやってお米に傾倒する一方で、20代は摂食障害と向き合う暗黒時代でもありました。摂食障害になったきっかけは、大学生の時に軽い気持ちで始めたダイエット。もともと「クソ真面目」と言われるくらい真面目でストイックな性格だから、見事に痩せることに成功したんですよ(笑)

でもだんだんと、「良い食品しか食べない」ことに固執するようになってしまった。最近だと、健康への強過ぎる執着によって体に悪影響が生じてしまっている状態に「オルトレキシア」という病名が付いたようですが、まさに私はこれだったと思います。外見をきれいにしたいという気持ちがねじれていって、自分の中身を浄化したいという思いが強くなっていきました。

徐々に食べられるものは減って、最終的には調味料を一切排除。塩を一粒も取らなくなって、お味噌汁すら飲めなくなってしまった。外国産の食品も添加物もダメだから、友達の結婚式に出ても何も食べられない。ワインも酸化防止剤が入っているから乾杯だけして飲まないし、東日本大震災の時はオフィスで支給されたお水すら飲めなかったんです。なぜなら、それが外国産の『クリスタルガイザー』だったから。

ただ、これほど極端な食生活をしている中でも、お米だけは食べられたんです。一般的に摂食障害の人はお米が食べられなくなる人が多いそうなのですが、私の場合は「米は素晴らしい食品」という安心感があったんだと思います。

お米

自分の中の“食の宗教”みたいなものが、お米への信仰と合致しちゃった感じ。「米さえあれば何もいらない」みたいな食生活でしたが、もしお米がなかったら、カロリーが全くなかった。お米を食べることができたから、命がつながったなと思います。

身長158cm、31kg。ついに家の前のゆるい坂道を登れなくなった

仕事が忙しくなるにつれて症状は悪化していって、一番ひどかったころは、食べなくても寝なくても平気どころか、むしろ気持ちが良い状態。睡眠時間は3時間程度で、それ以外はずっと働く日々。脳が覚醒し続けているような感覚でしたが、確実に体はおかしくなっていました。朝起き上がった途端に気絶するんですよ。貧血で倒れてしまって。真面目だからそんな状態でも出社していたけれど、ついに自宅の前のゆるい坂道すら登れなくなってしまいました。

そうなって初めて、半泣きになって心療内科に駆け込みました。なんだか心臓が痛くなってきて、「このままじゃ死ぬ」って直感的に思ったんですよね。そのころは身長158cmに対して31kgまで体重が落ちていました。

今考えれば、当時は肩にものすごく力が入っていたんです。同僚記者は全員ライバルだと思っていたし、良い記事を書きたいっていう気持ちばかりが強かった。だから多分、医者から「明日から出勤停止」と言われて「ああ、休んでいいんだ」と思ってホッとしたんでしょうね。そうしたら、急に体中が痛くなってきて。痩せ過ぎで、座っても寝ても体が痛いんです。

ただ、「即入院」と言われたものの、病院食への不満からお医者さんとは大ゲンカ(笑)。結局、入院は拒否して、蒸し野菜とか、ものすごい薄味の煮物とか、自宅療養で食べられるものを少しずつ増やしていき、10カ月ほどで職場に復帰しました。

「こうあるべき」から解放され、人生を楽しもうと思えた“離婚”と“小説”

本格的に回復へと向かい始めたのは、32歳のころです。きっかけは2つあって、一つは離婚をしたこと。

そのころは稲作をしながら、DIYで作ったキッチンカーでおむすび屋さんをしていました。お米に対してこんなに熱い気持ちがあるのに、取材をして記事を書くことしかできない自分がダサく感じて。30歳で新聞社を辞めて米作りを始めたんです。

稲
お米

今振り返れば、私は小さいころから「こうあらねばならない」と自分を律し続けてきたんです。新聞記者をやっている時も、米作りをしている時も、「ちゃんとやりたい」という思いばかり。でも、2度目の離婚を経験したことで、「“こうあるべき”なんてものはないのかも」と思うようになった。

そしてもう一つ大きかったのが、そのタイミングで読んだ村上龍さんの『69』という小説です。たまたま知り合いが勧めてくれたのですが、主人公があまりにもハチャメチャで、「人生を楽しめないヤツは悪だ」くらいのことが書いてあった。それを読んで初めて、心から「人生を楽しもう」って思えたんですよ。いろんなことにこだわっていた自分は何てちっちゃいんだろうって。

そう思えるようになってからはもう、すごかったですよ。まず、お酒を飲みまくりました(笑)。農業を辞めて、フリーライターとしての活動を始めたのもこの時期。コワーキングスペースやイベントなど、とにかく農業やお米に関係するいろんな所に顔を出しているうちに知り合いが増えて、だんだんと“お米ライター”として活動ができるようになりました。

お米

稲に囲まれたワーキングスペースで原稿執筆中の柏木さん

「当時の自分、もっと苦しめ!」
真面目な性格だから、極限までやらなければ浮上できなかった

摂食障害のあの日々は、本当に苦しくて、大変でした。友達とはどんどん疎遠になっていくし、毎日頭痛があって、心身ともに追い詰められている感じ。ピリピリしていて他人にも自分にもきつかったと思います。本来の20代は華々しくて、お肌もピチピチで良い時期だっただろうに、私は食事ができないからデートにも行けなかった。いろんな会合や飲み会にも参加できなくて、あの時に行っておけばなって思うこともあります。

でも、あの時期にとことん苦しんだから、今があるんですよね。そう考えたら、「当時の自分、もっと苦しめ!」って思います(笑)。もしも中途半端に苦しんでいたら、私の場合は今もまだ摂食障害から抜け出せなかったと思うんです。真面目でストイックだからこそ、死ぬ寸前みたいな、極限のところまでいかないと性格的に浮上できなかった。

もう散々苦しんだ。だから、これからはゆるく生きていきたいですね。そして、お米を食べる人を増やす活動がしたいです。お米の消費量は全国的に減っていて、昭和37年のピーク時は一人当たり年間118kgのお米を食べていたのが、今は54kgと半分以下。朝ごはんはパンで、昼は麺を食べて、夜はお酒を飲んで一粒もご飯を食べないという人もいる。そういう状況が悔しいんです。だから私は、お米の常識を全部覆して、おいしくて楽しいお米の新たな魅力を伝えていきたい。昔から築き上げてきた食文化という財産があるんだから、大事にしようよって思うんです。

これまでも興味を持った物事はいろいろありましたが、こんなにも情熱を捧げているのはお米が初めて。昨年には、お米が縁で再婚もしたんですよ。

お米

取材を通じて出会った米農家の夫は、すごい米マニア。家では炊飯実験をしているので、食事の時は2人でお茶碗に顔を突っ込んで、香りを嗅いで黙々と食べ、お互いに感想を言い合って、納得したらようやくちゃんとした食事が始まる。そんな変態夫婦ですが(笑)、お米という共通点がなかったら、きっと結婚することもなかったんだろうなと思います。

ありきたりだけれど、私にとってお米はもう、人生そのもの。お米が命をつないで、仕事を広げて、夫との縁をもたらしてくれた。まさかお米とこんなにも密な関係になるとは思わなかったけれど、まだまだ知りたいことがたくさんあるんです。昔の品種や海外の米事情をもっと調べたいし、吸水や炊飯、お米の種類ごとに合う料理も、もっともっと研究したい。

とはいえ、あくまでも無理しない程度に。あまりストイックにやり過ぎると病気になりますから(笑)。お米の可能性を掘り起こしながら、人生を楽しんでいきたいですね。

取材・文・編集/天野夏海 画像提供/柏木智帆さん