27 AUG/2014

良い子でなくてもいい――「意思を貫くこと」で知った新しい幸せ【今月のAnother Action Star vol.17 植村花菜さん】

植村花菜

植村花菜(うえむら・かな)

1983年1月4日生まれ、兵庫県出身。8歳のときにミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見て歌手になることを決意。大阪ミナミのストリートで歌っていたときに声を掛けられ、そのまま出場した「ストリートミュージシャンオーディション」で1200組のなかからグランプリを獲得。2005年にメジャーデビュー。2010年にリリースした「トイレの神様」がロングヒット。その後もリリースやライブを重ね、精力的に活動。2012年には単身渡米し、さまざまな経験を積む。2014年8月27日、自身初の洋楽カバーアルバム「The Covers ~60’s to 70’s~」をリリース

デビュー10年目にして初のチャレンジ
洋楽のスタンダードに植村花菜の味付けを加えて

デビュー10年目にして、初の洋楽カバーアルバム『The Covers ~60’s to 70’s~』をリリースした植村花菜さん。耳なじみのある60年代から70年代のスタンダードな名曲を、ジャズテイストのアレンジでじっくりと聴かせる。「ライブでは洋楽のカバーを披露することもあったけれど、全曲洋楽のカバーでアルバムとしてお届けするのは初めて」という植村さんにとって、まさに新たなチャレンジだ。

「良いと思った歌を届けるという意味においては、自分で作詞作曲した曲を歌うのと大きな違いはありません。でも、元の音源をリスペクトしつつ、それをどんな風に自分のものにして、自分の色に染めていくのかということに関しては、少し感覚が違うところもありました」

たくさんの候補曲の中から元の曲のイメージを壊さず、しかし、異なる角度から“植村花菜らしさ”を味付けできるものを厳選したというこの
アルバム。元々60年代から70年代の洋楽は、植村さんにとって身近な存在だった。

「私の母が、カーペンターズが大好きで。私も影響を受けて、ボーカルのカレンのように歌えたらいいなと、小さいころから憧れていました。そんな母の世代の人たちが聞いていた名曲を、私や私よりも下の世代に伝えたくて。このアルバムの曲は、親子そろって聞いてもらえるようにと願いながら選曲したんです」

さらにこのアルバムには、植村さんが29歳の時に、ギター一本と着替えの入ったスーツケースを抱え、たった一人で巡ったアメリカから受けた影響が色濃く反映されている。

知り合いもいなければ英語も話せない。そんな植村さんをアメリカへと駆り立てたのは、何だったのだろう?

30歳の節目が迫っているのに自分は空っぽ
その焦りがアメリカ一人旅に駆り立てた

植村花菜

2012年、29歳だった植村さんは、焦燥感に駆られていた。

「20代の最後に新しいことにチャレンジしないと、この先一生続くシンガーソングライター人生において大事なものを失ってしまうのではないか? 今行ったら、何か大切なものを得られるのではないか? そう思ったら、いてもたってもいられなくなりました」

歌詞を書き、曲を作るという作業がアウトプットだとしたら、そのころの植村さんは、さまざまなものを出し尽くしてしまった感覚があったという。それなのに、忙しい仕事に流されるままインプットの機会を逃し続ける日々。「このままではいけない」という気持ちばかりが、どうしようもなく高まっていた。

29歳にして飛び込む新しいチャレンジ。それを「ギター一本抱えてのアメリカ一人旅」にしようと考えたきっかけは、前年の28歳での出来事にあった。

当時、テレビの仕事で訪れたナッシュビルという土地で、オープンマイクと呼ばれる、誰でも飛び入りで参加できるオーディションに出た植村さんは、自分の歌を日本語で歌った。その時ライブハウスの人に「曲もギターも存在感があって、声もきれいだし素晴らしい。でも、歌詞が日本語だから意味が分からない」と言われたことが印象に残っていたという。

「実は、その言葉がちょっと意外だったんです。それまでの私は、洋楽はサウンド重視だと思っていて。洋楽の訳詞だけを見て、英語で書かれた本来の歌詞が持つ深みに気付いていなかったんです。ナッシュビルはカントリーミュージックが盛んな土地。カントリーはメロディやサウンドが似ているので、歌詞のストーリーで勝負するのだということを教えられました。また、現地の方に『ライブに参加したいの?したくないの? はっきり言いなさい』と言われたことも目からウロコで。自分の意思を伝える大切さを学び、もっともっと深く、アメリカという土地に根差した音楽と文化を感じたいと思ったんです」

無茶は承知だった。でも、「忙しさにかまけて新しいことができないままでいるのと、30歳という節目を目の前に無理をしてでもチャレンジするのとでは、その先に見える景色がガラリと変わってくるだろうと直感が働いた」という植村さんは、所属レコード会社や事務所を説得して2カ月の休みを取り、単身アメリカへと飛んだ。

(次ページへ続く)

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