「人生最大の危機」から生まれた魚屋の森さん。元IT企業社員が魚屋になって学んだ“穴を埋める”働き方【寿商店・森朝奈】

連載:「私の未来」の見つけ方

生き方も、働き方も、多様な選択肢が広がる時代。何でも自由に選べるってすてきだけど、自分らしい選択はどうすればできるもの? 働く女性たちが「私らしい未来」を見つけるまでのストーリーをお届けします

魚屋の森さん」としてYouTubeや各種SNSで魚屋さんの日常や、魚食のすばらしさを発信している森朝奈さん。

寿商店・森朝奈

新卒で大手IT企業・楽天に入社するも約2年で退職し、2011年に魚屋『寿商店』に入社。以降、創業者の父とともに、鮮魚卸業や飲食店の経営などに取り組んできた。

寿商店入社後、森さんは前職で培ったITスキルを生かして売り上げ拡大に貢献。コロナ禍で魚の売れ行きが鈍りピンチを迎えた際には、ネット販売やSNSでの発信を駆使し、危機的状況を打開した。

森さん

寿商店で働き始めてから12年がたちますが、父から『マグロがうまくさばけるようになったな』と認めてもらえたのは、最近のことです。

そう言って、森さんはうれしそうにほほ笑む。20代で飛び込んだ魚屋の道は、職人の技術が必要とされる世界。家業とはいえ、甘えも妥協も許されない。

長い修業の日々を経て30代を迎えた今、「ようやく自分らしく働けるようになった」と話す森さんに、「魚屋の森さん」が生まれるまでを聞いた。

手触り感のある魚屋の仕事が、自分の性分に合っていた

うちのお父さんはかっこいいーー。幼い頃から、素直にそう思っていました。

保育園の食育イベントでブリの解体ショーを披露してくれた父。「朝奈ちゃんのお父さんはかっこいいね!」とたくさんの友達が声を掛けてくれたのを、今でも覚えています。

そんな私が新卒で楽天へ入社したのは、紛れもなく家業を継ぐためです。

当時はちょうどiPhoneが普及し出した頃で、生鮮食品の通販も徐々に広がりつつありました。

新しいもの好きの父は「これからはネットで魚を売る時代だ」と、早速『楽天市場』に出店。魚業界の中でもかなり早くネットで店舗を持ったのですが、売り上げは思うように伸びず。

困った父は当時大学生だった私に、「どうすればネットで魚が売れると思う?」と相談してきたんです。それは、父が初めて私にした仕事に関する相談でした。

しかし、当時の私はECに詳しいわけではなく、何も答えられませんでした。

その時は、父の力になれないことがとても悔しかった。それと同時に、「私がITの知識を学べば、今の寿商店に欠けている部分を埋められるのでは?」と思い立ち、楽天への就職を決意しました。

ですが、入社から2年が過ぎたころ、父の病気を機に退職することに。2011年に寿商店へ入社しました。

子どもの頃からずっと魚屋の仕事は見てきたので、父が何をしているのかは何となく分かっている気でいたのですが……実際に自分が働く側になってみると、できないことばかり。たくさんの壁が待ち受けていました

例えば、魚のさばき方。この技術の習得にはものすごく苦労しました。

父は「背中を見て覚えろ」タイプの職人かたぎな人間なので、手取り足取り魚のさばき方を教えてくれるようなことはなく。

先輩従業員がさばいているのを盗み見たり、家で本やYouTubeや本を見ながら練習したりして、とにかく見よう見まねで経験を積んでいきました。

寿商店・森朝奈

一方で、魚屋で働き始めてからは、自分がどんなときに仕事の喜びを感じるのかが分かるようになりましたね。

魚屋で働く良さは、なんと言ってもお客さまのリアクションをダイレクトに感じられるところ。

前職では、どんなに会議資料を一生懸命作ったところで、組織もビジネスの規模も大きすぎて、自分の仕事がお客さまに与えている影響を肌で感じることが難しい部分がありました。

でも魚屋では目の前のお客さまが「ありがとう」と言ってくれたり、新しいお客さまを連れてきてくれたりします。

一生懸命やればやっただけ、自分に返ってくるものがある。手触り感のある魚屋の仕事は、とても気持ちがいいものだし、自分の性分に合っているなと感じました。

先代の苦手なことを探し、穴埋めするつもりで貢献してきた

また、私は本業とは別のところで、あらゆる業種の後継者が集う「跡取り会」というコミュニティーを運営しています。

実は、そのメンバーの半数以上が意見の食い違いなどから先代と決裂してしまっている状態です。

というのも、家業を継ぐ跡取りの人たちならではの課題があって……。

二代目以降の人たちの多くが「自分も先代と同じぐらいのことを成し遂げなくては」と思っているのですが、「昔と同じやり方では今の時代には通用しない」と思うとつい強く出てしまい、先代との関係を悪くしてしまいがちなんです。

そういうケースをたくさん見てきたので、私は「先代が苦手としていること」や、「自分だからできること」を探して貢献する方が、長い目で見たときに事業成長につながるのではないかと考えて仕事をしてきました。

例えば私は、父の仕入れには一切口を出しません。そこは父のカリスマ性が最も生かされるフィールドだからです。

「ちょっとおかしいな」と感じる部分があったとしても、何か理由があるはずなので、今は教えを乞うことに徹しています。

一方で私は、IT企業で得たノウハウを生かし、寿商店全体のDXに取り組みました。

新しいWebツールやシステムを導入して、電話やFAX中心だったアナログなコミュニケーションをデジタルに変え、仕入れや加工、配送、本部などの役割の違うメンバー全員が同じ情報を見て決断できる状態を整えたのです。

すると従業員の勤務時間が減り、飲食店の店舗数を拡大する余裕が生まれ、売り上げアップにも貢献することができました。

このように私は、先代と同じことをするのではなく「穴を埋める」働き方を意識してきたからこそ、お互いの強みを生かして会社全体を活性化できたのだと感じています。

これはきっと、家業に限らず、会社組織でも一緒ですよね。

例えば、先輩や上司など、自分よりも優れたスキルを持っている人と全く同じフィールドで戦おうとすると「できない自分」に自信を失うこともあるし、お互いがライバルになってしまうこともあります。

けれど、そうじゃないところで「このチームに足りないものは何か」「このチームをもっとよくするために他の人はやっていないけれど自分がやった方がいいことは何か」を考えて行動すると、途端にそのチームに自分がいる意味を発揮しやすくなる。

これは、自分にとってもチームにとっても、ヘルシーな考え方なのではないかと思います。

コロナ禍のピンチを乗り越えて見つけた「私にしかできない仕事」

寿商店・森朝奈

ただ、寿商店に入社してからは、なかなか私のことを認めてくれない父にいら立って「もう辞めたい」と退職を持ち出したこともあります(笑)

楽しいことばかりではないし、むしろ大変なことの方が多かったくらい。特に、コロナ禍は人生最大のピンチも経験しました。

コロナショックが到来した2020年には飲食店経営が特に大きな打撃を受け、売り上げは例年の4割にまで減少。

父は元気をなくしてしまい、自宅待機中の社員からも不安の声が漏出しました。中には、「飲食業界には未来が見えない」と寿商店を辞めていくスタッフも出てしまったのです。

そんな時、わらにもすがる思いで始めたのがYouTubeチャンネル「魚屋の森さん」です。

投稿を始めたタイミングが幸いしたのか再生数は順調に伸び、寿商店を全国のお客さまに知っていただくきっかけになりました。

同時にECサイトをリニューアルしたり、SNSにも力を入れたりするうちに、『お任せ鮮魚BOX』というヒット商品が生まれました。

これは、コロナ禍で飲食店が市場で魚を買わなくなったために値下がりした珍しい魚を詰め合わせた商品です。なんと、1日2000件も売れた日もあります。

このヒットをきっかけに、詰め合わせ作業のために自宅待機していた社員は会社に戻り、社内には活気が戻りました。

それだけでなく、市場の方たちも私に仕事の相談を持ちかけてくれるようになり、「父のアシスタント」としてではなく、ようやく「森朝奈」として頼ってもらえるようになったことがうれしかった。

これ以降、少し自分に自信が持てるようになりました。

当時はつらいこともたくさんあったけど、「ピンチはチャンス」という言葉は、本当なんですね。

人との出会いから生まれる「共感力」が強みに

寿商店・森朝奈

また、最大のピンチだったコロナ禍は、事業を見直すチャンスをくれただけでなく、「自分らしく働く」とは何かを知るきっかけもくれました。

コロナ禍から始めたYouTubeもそう。私は商品の裏側にあるストーリーを伝えることが大好きなので、皆さんに向けて情報発信をしているときは特に「自分らしく働けている」と感じます。

それに、『お任せ鮮魚BOX』のように、自分のアイデアをカタチにして事業に貢献できたときや、お客さまから「ありがとう」「おいしかった」という言葉をもらえたときもうれしい。

浮き沈みの中でいろいろな仕事を経験してきたからこそ、「何なら力を発揮できるのか」「何に喜びを感じるのか」そういうものが分かってきたんだと思います。

また、私はIT企業から魚屋に転職して働く環境は大きく変わりましたが、お客さまを相手に商売をするという意味では双方共通しているし、全ての経験が今につながっていると感じます。

特に、私が20代のうちにやっておいてよかったと思うのは、自分と異なるバックグラウンドを持つ人や、自分とは異なる考え方をする人たちと積極的に関わってきたこと

多様な人の存在を一人でも多くリアルに感じられるようになると、あらゆる人への「共感」が生まれ、それが仕事に役立っていると感じます。

例えば、私には子どもはいませんが、子どもがいる友人がいれば「あの人だったら、こういう商品が欲しいだろうな」と想像できるようになる。

自分が100%同じ立場にはなれなくても、さまざまな属性・価値観の人と出会って「共感できる人」を増やしておけば、それが想像力の幅につながりますし、商売を発展させるヒントになります。

今後、寿商店を好きになってくれる人をもっともっと増やしていきたいので、私自身も引き続きいろいろな方とお会いして、想像力を豊かにしていきたい。

そして、おいしい魚を食べてくれる人を一人でも多くできたらいいなと思っています。

寿商店 常務取締役 森朝奈さん

寿商店 常務取締役
森朝奈さん

1986年生まれ、名古屋市出身。2009年に早稲田大学国際教養学部卒業、楽天入社。社長室配属。退職して名古屋市に戻り、11年に父・嶢至さんが創業した、鮮魚販売や飲食店を展開する寿商店に加わった。17年常務取締役就任。YouTubeの『魚屋の森さん』チャンネルを運営するYouTuberでもある。著書に『共感ベース思考 IT企業をやめて魚屋さんになった私の商いの心得』(KADOKAWA)

取材・文/一本麻衣 本人画像提供/森朝奈さん 編集/栗原千明(編集部)