30歳で車いすに。絶望の淵からパラフェンシング日本代表に上り詰めた看護師・阿部知里の「最初の一歩」の踏み出し方

フェイシング姿の阿部さん

パラフェンシングの選手として東京パラリンピックに出場し、今年の日本選手権でも第3位になるなど、第一線で活躍する阿部知里さん。

一流のアスリートとして実績を築く彼女だが、本業はフルタイムの看護師だ。患者のがん細胞の遺伝子変異を調べ、個々に合った抗がん剤を選ぶ「がんゲノム医療」のコーディネーターとして、日々患者さんやご家族に寄り添っている。

「看護師としてキャリアを築いて、バリバリ働き続ける自分をずっとイメージしていました。でも、働き始めて10年ほどたった頃、12歳の時に発症した脊髄の病気の影響で歩けなくなってしまって。自分が思い描いていた未来が全て崩れ落ちて、どう生きていけばいいのか分からなくなったんです」

徐々にふさぎ込むようになった阿部さんに光を与えたのは、絶望の淵で自ら踏み出した“小さな一歩”だった。

「車いすの窮屈さ」から逃れたかった

私が看護師になろうと思ったのは、高校生の時に大きな手術をするために入院したことがきっかけでした。

一緒に入院していた幼い子どもたちが、懸命に治療している姿を見たり、昨日まで一緒に笑い合っていた人が翌日には亡くなっていたり。そういう現実を目の当たりにして、命を助ける仕事がしたいって思うようになって。

看護師の実習を受ける中で、命を助けるだけでなく、命の誕生を支える仕事もすてきだなと思い、ファーストキャリアで選んだのは助産師。

「何でもできる看護師になりたい」と、とにかくたくさん学び続け、看護師・助産師・保健師の資格を取りました。

看護師として働く阿部さん

看護師として働く阿部さん

病気の影響で車いすの生活になったのは、助産師として働いて10年がたつ頃。

持病である脊髄の病気が悪化したことで、日に日に足が動かなくなり、歩くことができなくなってしまいました。

ありがたいことに職場の理解があったので、仕事のスタイルを変えてもらって、何とか看護師の仕事に復帰したけれど、車いすの生活は本当に窮屈で。

1cm先にある物も取れない。外に出れば階段や傾斜など障害物だらけで、行きたいところにも行けない。

車いすの中に閉じ込められているような感覚で、苦しくて苦しくて仕方がなかった。自分が「障がい者」と特別視されることも嫌でたまらなかったんです

そこで心も体も少しでも自由になりたくて足を踏み入れたのが、パラスポーツの世界でした。

少しでも気分転換になればいいなと、軽い気持ちでいろいろ体験する中で私がフェンシングに惹かれたのは、元オリンピック選手でフェンシングの強豪校の監督だった市ヶ谷 廣輝さんとの出会いがきっかけです。

「どうせやるんだったら、パラリンピックを目指してみようよ。目標をどこに置くかで頑張り方が大きく変わってくるから、せっかくなら高いところに置いてみない?」

そんな言葉と情熱に押されて、車いすの中でがんじがらめになっていた自分の心と体が少しずつ解放されていく感覚がありました

めがねを掛けるのも、車いすに乗るのも、さほど変わらない

最初は、「閉塞感から解放されたいな」「健康にもいいかな」くらいの軽い気持ちから練習に通い始めました。

練習は健常者の中に混ざって一緒におこなっていて、仲間たちは誰も私のことを特別視しない。一緒に汗を流し高め合い、“普通の人”でいられる空間も心地よく、ただただ通うことが楽しかった

そうして毎週練習に通っているうちに、だんだん競技にのめり込むようになっていったんですよね。

競技中の阿部さん

私が練習に参加していた高校のフェンシング部は国際大会に出るような強豪校だったので、監督はオリンピック選手の育成に力を注いでいました。

そんな環境も相まって、自然とパラリンピックを意識し始めるようになったし、今までお世話になったたくさんの人たちに、パラリンピックに出場することで恩返しがしたいと思うようになりました。

練習に打ち込み続けて3年ほどたった頃から国際大会に出場するチャンスが増え、2021年には念願の東京パラリンピックに出場。

初めてフェンシングの剣を手にした時には、まさか自分が数年後にパラリンピックの日本代表を務めさせてもらえるまでになるとは、夢にも思っていませんでしたね。

東京パラリンピックでは、国籍や性別、年齢が違っても、車いすでも義足でも、目が見えても見えなくても、手足があってもなくても、みんな何も気にしない。互いに笑顔でたたえあう、そんな世界に身を置いてみて、その人自身を認め合えることの心地よさを感じました。

私は、目が悪い人がめがねをかけているのと、足が悪い人が車いすを使っているのって、変わらないことだと思うんです。

いろいろ制限されることもあるけれど、こんな風に世の中の見え方が変わり、視野が広がったように思います

競技中の阿部さん

歩けなくなってから、さらに人生が豊かになった

パラフェンシングを通して私に起きた変化は、看護師の仕事にも影響を与えてくれています。

私が日々関わっている患者さんは、がんなど重い病気を抱えている人も多いのですが、私がパラリンピックに出場したことで笑顔になってくれる人も増えたように思います。私の新聞の切り抜きを持ってきてくれたり、わざわざ合いに来てくれて「応援してるよ!」って言葉をかけてくださったり。

私の姿を通して、「病気や困難があっても、人生終わりじゃない、やりたいことを諦める必要はないんだよ」っていう希望を少しでも持ってもらえることができていたらうれしいですね。私も歩けなくなったけれど、それ以上に視野が広がり、人生が豊かになったから。

私はこれからも、自分らしく生きることを教えてくれたフェンシングは続けていくつもりです。体力的にも時間的にも厳しいけれど、辞めることはできないですね。

表彰状をもらう阿部さん

直近の目標は2026年に日本で開催されるアジア競技大会に出場すること。いい闘いをして、仲間たちと喜びを分かち合えるといいなと思います。

看護師としても、病気や手術でつらい経験をたくさんしてきた私だから分かる、共感しあえる想いがある。これからも患者さんやご家族の気持ちに寄り添える看護師でありたいと思っています。

歩けなくなった頃には、未来にこんなに希望を持てるようになるとは、思いもしませんでしたが、絶望の淵で「パラスポーツを見に行ってみよう」と一歩を踏み出せたからこそ、今の自分があります。

「もうダメだ」と思うことがあっても、小さな一歩を踏み出せば、その先にはきっと道がある。自分次第で出会ったことのない世界が見られ、世界を広げることはできるんだと、今の私ならそう思えます。

パラフェンシング選手 阿部知里さん

阿部知里さん

高松市出身。12歳の時にくも膜下出血で倒れ、脊髄の病気が判明。看護師の職に就いてから10年ほどたった30歳頃に、病気の影響で歩行困難となり、車いす生活に。37歳でパラフェンシングを始める。「カテゴリーB」クラスで、世界ランキングはフルーレ23位・サーブルは19位。2018年インドネシア アジア競技大会で銅メダル、21年東京パラリンピックに出場、フルーレ14位・サーブル10位。24年には男女混合カテゴリー混合の日本選手権で第3位。現在は、看護師とパラフェンシングを両立

取材/大室倫子(編集部) 文・編集/光谷麻里(編集部) 写真/阿部知里さんご提供