「亡き父の悲願を果たしたい」200年以上の歴史をもつ酒蔵で働く若き杜氏・吉田真子の挑戦【吉田酒造】
古代の日本で酒は一年を通じて、神まつりのたびに造られていて、酒造りを担ったのは神々に仕える女性たちだったと言われている。しかし、江戸時代以降、酒の大量生産が始まると酒蔵での力仕事も増え、次第に酒造りは男の仕事へと変化していった。
現在も、酒蔵で働く人の大半は男性だ。しかし、近年は酒造りの最高責任者である「杜氏」(とうじ)として活躍する女性の姿も目立つようになってきた。
福井県にある酒蔵・吉田酒造の杜氏に就任した吉田真子さんもその一人だ。
「大学卒業後は、普通に会社に就職するものだと考えていました」
そう話す彼女は、蔵元だった父の体調不良をきっかけに、意図せず家業を継ぐことに。
手探り状態から始まった杜氏の仕事。真子さんはこれまでにどんな壁を乗り越えてきたのだろうか。
「自分がやるしかない」歴史ある酒蔵を残すために
曹洞宗大本山の門前町として知られ、大河・九頭竜川の中流に位置する福井県永平寺町に蔵を構える吉田酒造。文化3年(1806年)の創業から200年以上の歴史を持つ蔵元の次女として真子さんは誕生した。
2015年の大学卒業後、2017年に杜氏代理となり、その後、杜氏となった真子さん。学生時代は一般企業への就職を考え、企業説明会にも足を運んでいた。
彼女が家業を継ぐことになったきっかけは、6代目の蔵元である父親が体調を崩したことだった。社長業を引き継いだ母から「戻ってきてほしい」と頼まれたのだ。
1〜2カ月悩んだ末、実家に戻ることを決めた真子さん。家業を継ぐことにしたのは、「江戸時代から続くこの蔵を、絶対に消滅させることはできない」という強い使命感からだった。
「他の職業であれば私の代わりはいるのかもしれませんが、ここをやるのは私しかいない。だから、やるしかない。ただその思いだけでした」
蔵でどんな仕事をするにしても、まずは酒のことを知る必要がある。大学卒業後はまず蔵人(※杜氏の下で日本酒造りに従事する職人)として、酒造りのいろはを学ぶことから始めた。
慣れない作業を前に、悪戦苦闘の毎日が続く。そんな中、真子さんは人生最大の壁に直面した。
当時の蔵元だった父が、54歳という若さで逝去。翌年には高齢の杜氏が腰を痛めて働くことができなくなり、吉田酒造は未曽有の危機に陥ったのだ。
そこで新たな杜氏として白羽の矢が立ったのが、真子さんだった。
蔵人になってまだたったの2年。経験の浅い自分に父がやってきたような杜氏が務まるのかーー。プレッシャーは大きかった。
しかし、吉田酒造の存続を思えば、やっぱり自分がやるしかない。腹を決め、試行錯誤を重ねながら、杜氏代理の期間をなんとか乗り越えた。
その後、2017年秋に正式に杜氏に就任。当時24歳、日本で最年少の女性杜氏が誕生した。
「外の世界」に触れて、はじめて気づいた酒造りの楽しさ
杜氏になってからの一年は、とにかく必死に働いた。覚えることも、習得すべき技術や感覚もまだまだ山ほどある。真子さんは不安な気持ちを拭いきれずにいた。
当時は「国内最年少女性杜氏」と注目された。「まだ杜氏になったばかりで、お酒を造ること、自分のことで精一杯。そんな注目されるような人間じゃないのに」と葛藤もした。
しかし、北海道の上川大雪酒造で経験豊富な名杜氏・川端慎治さんの教えを受けたことをきっかけに、「酒造りの面白さに気づくことができた」と真子さんは言う。
「うちで酒造りをしていた時は、作業自体に慣れることや、目の前の仕事をこなすことだけで精いっぱい。正直、酒造りの楽しさはまだ分からなかった。
でも、自分の蔵を一度離れて外の世界のやり方や考え方に触れたことで、自分の仕事の意義を改めて感じられるようになったんです」
杜氏が変われば酒の味も変わる。そう言われるほど、日本酒作りの世界では、杜氏の腕がものを言う。
10年でやっと一人前になると言われるほどの厳しい世界。真子さんもその責任の重さを痛感しながら、酒造りと向き合っている。
毎年、9月末から本格的に始まる酒造りは、翌年の5月まで約7カ月間続く。その全責任を杜氏が負う。
「自分の判断一つで、酒の仕上がりがまるで変わってしまう。その時々の状況を見て適切な判断を下すことは、すごく難しいですね」
また、真子さんが座右の銘として掲げるのは、「和醸良酒(わじょうりょうしゅ)」という言葉。
酒造りに携わる人の和の精神によって良酒(美味しいお酒)が生まれ、その良酒によって、造り手、売り手、飲み手のすべての人に和がもたらされるという考え方だ。
「酒づくりはチームワーク。杜氏と蔵人さんとのいい関係性があってこそ、おいしいお酒が生まれると思うんです」
「年々、酒の味が良くなっている」若き杜氏の原動力
真子さんが杜氏になってから、吉田酒造は醸造アルコールの添加を一切行わない「全量純米酒の蔵」へと生まれ変わった。
酒づくりに用いる米は、自社の田圃と蔵人の田圃で育てた山田錦と五百万石、華越前。それらを白山連邦の雪解け水で育てている。
米も水も、すべて地元・永平寺町のもの。その土地の素材を最大限に生かして作られた日本酒『白龍』は、まさに永平寺町の郷酒だ。
吉田酒造の理想を自らの代でかたちにした真子さん。「これは、志半ばで亡くなった父の夢だったんです」と明かした。
また、杜氏として大きな責任を背負う彼女の原動力となっているのは、自社の日本酒を飲んだお客さまの笑顔だ。
「先日、3年ぶりに蔵祭りを行ったんですが、その時に参加された方々に、『年々、酒の味が良くなっているね』と言っていただけました。すごくうれしかったですね。
お客さまに『おいしい』と言われると、自分がやってきた成果がちゃんと出ているんだなと実感できますし、杜氏になってよかったなと思えます」
世界展開、働き方改革、技術力の向上……やりたいことは山ほどある
酒造りの経験がほとんどない状況から、吉田酒造を背負う立場になった真子さん。これからチャレンジしたいことは、まだまだたくさんあると目を輝かせる。
「うちでは山田錦、五百万石、華越前を酒米として使っていますが、米の特性を生かした酒造りをさらに極めていきたい。なので、米作りそのものにさらに力を入れていく予定です」
蔵の目の前には、自社の田んぼが一面に広がっている。その光景はとても美しい。
「こうやって稲が育つ様子を見守っていると、お米自体にも愛着が湧いてきて、それを使っていいお酒をつくるぞ、という気持ちになるんですよね。吉田酒造で働く蔵人の皆さんにも、そう感じてもらえたらいいなと思っています」
来季は香港の会社と合同で新しい蔵を設立する。これからは、海外市場で日本酒の良さをアピールしていくことも視野に入れている。
「海外の人にも愛される味わいも見つけていきたいし、永平寺町産のお米を使ったお酒を、世界中の人に楽しんでもらいたいです」
また、「蔵人たちが働く環境も変えていきたい」と真子さんは決意を語る。
「私がこの業界に入った時は、休みがないのが当たり前で、休みが欲しいなんて言うようではプロ失格という感じでした。
でも、しっかり休むことでできるいい仕事もあるはず。腕を磨いた人たちが長く働けて、若い蔵人たちにとってもより魅力的な環境をつくっていけたらと思います」
杜氏に任命されてから早5年。真子さんも29歳になった。しかし、「まだまだ未熟」と謙虚だ。
「チーム作りも酒造りの技術も、まだまだ経験が足りていません。私はまだまだ成長できるし、もっといいお酒がつくれるようになると思う。もう一つも二つもレベルアップしていきたいですね」
取材・文・撮影/モリエミサキ 写真/吉田真子さん提供