13 SEP/2022

【フォトグラファー・佐野円香】師匠からのクビ宣告で「できない」自分に絶望。苦手と好きに正直になって見つけた突破口/大木亜希子の詰みバナ!

人生、詰んでからがスタートだ
ライター大木亜希子の詰みバナ!

フリーライター・大木亜希子。元アイドルで元会社員。こじらせたり、病んだり、迷って悩んだ20代を経て30代へ。まだまだ拭いきれない将来に対する不安と向き合うために、同じく過去に“詰んだ”経験を持つ女性たちと、人生リスタートの方法を語り合っていきます。「詰む」って案外、悪くないかも……?

こんにちは。作家・ライターの大木亜希子です。

『詰みバナ!』第5回目のゲストは、フォトグラファーの佐野円香さんです。

私と佐野さんが出会いは、10年前にさかのぼります。当時Twitter上で彼女が撮影した女性のグラビア写真を見かけた私は、「女の子をなんて素敵に撮る人なんだろう!」と、衝撃を受けました。

そこで佐野さんのアカウントを探し出し、ダイレクトメッセージを送り、実際に会ったことがきっかけで仲良くなりました。

大木亜希子さん・佐野円香さん

今や有名俳優やアイドルから指名が入るフォトグラファーの佐野さんですが、20代半ばまで本業だけでは食べていけず、アルバイトで生計を立てていたそう。

さらに、とあるきっかけで一時は廃業の危機に陥ったこともあるのだとか……。

一体どのように「詰み」から抜け出し、キャリアを積み重ねてきたのでしょうか。

14歳で「写真で食べていく」と決意、しかし就職で苦戦

大木亜希子(以下、大木)

円香ちゃんは、14歳でフォトグラファーになると決めていたんだよね。

佐野円香(以下、佐野)

うん。その頃、母の知り合いから「円香ちゃんこういうの好きなんじゃない?」と壊れかけの一眼カメラをもらって。

手にした瞬間、直感で「これだ」とビビっときてしまって。「私はこれで食べていく」と決めました。

大木

決断が早い! 本格的に写真を学んだのは専門学校に入ってから?

佐野

そう。でも専門学校を卒業しても、就職先は全然なかった。私、身長が小さくて、150cmないんです。

面接を受けても「重い機材とか持てないでしょ?」と言われて、どの会社からも内定がもらえませんでした。

佐野

しかも、私の年代は「デジタルネイティブ第一世代」。

「写真を撮ること」を気軽に始められる時代で。

大木亜希子さん・佐野円香さん
大木

なるほど、ライバルも多かったわけだ。

佐野

そうです。飲食店でバイトをしながら、写真専門誌に載っている求人情報を見て働き口を探しました。

結果、やっとの思いでとある有名フォトグラファーさんのアシスタントになることができたんです。私はアシスタントとしては三番手の下っ端でしたけどね。

大木

念願のプロの世界に潜り込めたんだね。

佐野

私もそう思ったんだけど、いざアシスタントを始めてみたら、思うようにいかなかったなあ。

大木

というと?

佐野

フォトグラファーの方は、同じくアシスタントだった私の先輩に対して強めの言葉を投げることが多かったんです。そんな光景を毎日見ていたら「次は私がターゲットにされるのでは」と怖くなってしまって……。

精神的にまいってしまい、22歳の頃に師匠の元を離れることにしたんです。

大木

自分が怒られているわけではなくても、殺伐とした空気を感じとってしまうことはあるよね。

ここが円香ちゃんの「詰み期」だったのかな?

佐野

ううん、その後に転職した男性向けのストリートカルチャー誌に多く携わるフォトグラファー事務所にいた頃が一番詰んでたと思う。

大木

一体どんなことがあったの?

佐野

その事務所でも、また別のフォトグラファーのアシスタントについたんだけど、自分のポンコツさに絶望しちゃって。

集団行動ができなければ、気配りも苦手。撮影現場に置かれた椅子やテーブルを先回りして隅に寄せておくことすらできなくて、ただボーッと傍観してるだけ。

全然師匠のサポートができなかったんです。

佐野

師匠は根気強く私のことを育てようとして、「何ならできる?」「どうしたらできそう?」っていつも優しく聞いてくれたんだけど、何をやっても上手くいかなくて悔しかった。

大木

師匠の期待に応えられない自分に、もどかしさを感じていたと。

大木亜希子さん・佐野円香さん
佐野

私、正直、勉強ができた方で、学生の頃は生徒会長をやるようなタイプだったんだよね。

振り返ってみると、何かとリーダーを任されることが多かった。今まで自分を「優等生」だと思い込んでいたからこそ、初めての挫折経験にショックが大きくて。

大木

それまではなんでもそつなくこなしてきたわけだね。でも、どうしてアシスタント業務はうまくいかなかったんだろう?

佐野

今思うと、私は心底「フォトグラファー」になりたかったんだと思う。

だから、「アシスタント業を極める」ということが腹落ちしていなかった。アシスタントとして必死に努力する意味を、見い出せなかったんです。

師匠からのクビ宣告。意図せぬ独立で廃業寸前に

大木

アシスタント業がしっくりきていなかったとのことだけど、その後どうしたの?

佐野

実は、師匠のアシスタントをクビになっちゃったの。

大木

え! 一体何があったの?

佐野

仕事でのミスがあまりにも多い私を見かねた師匠から、ある日「お前、一旦頭冷やせ」と言われて。

今なら分かるけど、あれは自宅謹慎処分みたいなものだったんだよね。仕事に身が入っていない私を気遣ってくれた部分もあるんだと思う。

大木亜希子さん・佐野円香さん
大木

そこからどうしてクビに……?

佐野

当時の私は、それが謹慎だなんて思っていなくて、ちょっとお休みをもらったくらいの気持ちで。

だから、ちょうどその時、私個人に撮影の仕事の依頼がきたら、引き請けちゃったのね。そしたら後日、それを知った師匠にこっぴどく怒られた。

佐野

ミスはする、気遣って休ませてるのに反省するどころか勝手に自分で仕事を請ける。

冷静に考えると、半人前の私がやっていいことじゃないよね。それで、「お前、もう明日から来るな」って雷が落ちたんです。

大木

おぉ……クビ宣告だね。

佐野

そうだね。師匠に怒られてやっと「しまった!」って気付いたけど、もう後の祭り。

こんなことにも気付けない自分ってどこまでもポンコツなんだ、って絶望したし、周りを見ずに自分の事ばかり考えていたのが恥ずかしくて。

1週間、ひたすら号泣してました。

大木

仕事もクビになり、自分の未熟さに絶望して……まさに「詰み」だね。

思いがけずフリーランスになってしまったわけだけど、それからどう過ごしていたの?

佐野

師匠のアシスタントをクビになった後は、学生時代にやっていた居酒屋のアルバイトに復活したり、先輩フォトグラファーの仕事を手伝ったり。

佐野

フォトグラファーとしては、ライブハウスの撮影を中心に少しは依頼がくる状況にはなってたんだけど、どれも単発で次につながらなくて。到底、カメラ一本では食べていけなかったんだよね。

大木

フォトグラファーの仕事だけで独立するのは、厳しかったんだね。

私もアイドルからライターに転職した時、「書き物だけで月々の収入を得る」ことに苦労したから分かる。

大木亜希子さん・佐野円香さん
佐野

仕事をもらうことに必死だったから、当時は撮影の依頼があったら、クリスマスも大晦日も三が日も休まなかった。

どんなに小さな仕事でも引き請けて、必死に頑張っていました。

でも次第に、体力の限界も感じるようになっていったんです。「このままじゃ絶対にいつか潰れるぞ」と

大木

無茶できるのは、体力のある若い時だけだもんね。

佐野

本当にそう。しかも、同じような撮影ばかり何年も続けていたら、カメラマンとして成長できないなと思って。

新しいことをしなきゃっていう焦りも感じ始めていました。

「好き」ではじめたことが突破口に

大木

焦った結果、何を始めたの?

佐野

25歳の頃、ストリートスナップの撮影で出会った女の子達に声をかけて、グラビア撮影をするようになりました。

大木

なぜグラビア?

佐野

とにかく「フォトグラファーとして何かしなきゃ」と焦っていたのもあるけど、小さな頃から女性のグラビアが大好きで。

佐野

女性にしかない魅力を武器に表現している女性達に強く引かれていたし、カッコいいなって憧れてた。

でも、それはあくまでも趣味であって、「狭き門だから仕事にするのは無理だ」と、最初は諦めていたんだけどね。

大木

始めてみて、どうだった?

佐野

グラビア撮影を始めて2年くらい経った27歳の時、朝日広告賞のグランプリを獲ったんです

こんなに大きな評価をいただけるなんて思ってなかったから驚いたと同時に、「私の生きる道はコレだ!」と思いました。

大木亜希子さん・佐野円香さん
大木

がむしゃらながらも自分の方向性を見つけたことで、詰みからの突破口が開けたんだね!

佐野

受賞したからといっていきなり依頼が増えるわけでもなかったから、出版社に乗り込んでひたすら売り込みしました。

「こんな企画ができますよ」とか、「夏になったら水着企画をやりませんか」とか。

大木

すごい、ひとりで営業に回ったんだね。大変だったでしょう?

大木

「女性フォトグラファー」はマイノリティーだったから、つらい思いをしたこともあるよ。

クライアントの男性にエレベーターで突然に手を握られたり、発注先からギャラを20万円も踏み倒されたり。

大木

心労が多い……。

佐野

でも、仕事を続けていると、30歳になった頃から指名での撮影依頼が増えてきたの。

急に景色が変わったのを覚えています。30代に入ったことで、同世代の女性フォトグラファーには結婚して家庭に入ったり、転職したりする人が増えて。

一つの節目となる年齢なんだな、って感じたなあ。

大木

私も30歳になった頃、自分と同じようにライターとして働いていた同業女性が、一斉に辞めていったかもしれない。

大木亜希子さん・佐野円香さん
佐野

同業者をライバル視してたわけじゃないけれど、「フォトグラファーとして生き続けるか」というふるいにかけられた結果、「自分は生き残ったんだ」という感じはありました。

大木

苦労も多かったと思うけど、フォトグラファーを続けられたのはなぜ?

佐野

14歳で初めて一眼レフを手に入れた時から「何があっても写真で食べていく」ということは決めていたから

それが原動力になっていました。

大木

昔の自分との約束を、守り続けていたんだね。

「やりたくないこと」からは逃げていい。本気で頑張れるものを見つけて

大木

Woman typeは働く女性が大勢読んでいるんだけど、自分の働き方や仕事で悩んでいる人にどんな言葉をかけたいと思う?

佐野

まずは「人生において何を一番大切にしたいか?」という優先順位を決めるといいと思います。

例えば、お酒を飲むことが好きで「絶対に毎日飲みたい」と思ったら、夜遅くまで残業がない会社を選んだほうがいいでしょ(笑)

大木

ライフワークも大切にするためにね。

佐野

その上で「どんなことなら、自分は頑張れるのか?」も考えてるといいと思う。

やっぱり、お金を稼ぐことってそこまで甘くない。「頑張らなくていい仕事」なんて無いんです

どんなに希望通りの仕事に就けたとしても、働く上では絶対に頑張らなければいけないタイミングってあると思うので。

大木亜希子さん・佐野円香さん
佐野

私自身もキャリアを振り返ってみると、「女性のグラビア」という幼い頃から好きなものに支えられていたからこそ、結果的に頑張り続けられたんだなと思います。

大木

闇雲に挑戦するのではなく、「自分の好きなこと」を知る必要があると。

佐野

そう。あとは「やりたくないことからは逃げる」ことも必要なことだと思います。

佐野

私は集団行動もできず、アシスタントもクビになった。でもそうやって自分の苦手なことを知れたし、「自分にとって違和感があることは、私は頑張れないんだ」って分かったからこそ、やりたい仕事に全力を注げたんだと思います。

大木

一度はクビになったけれど、「人生に詰んだ、その先」で、やりたいことが見つかったんだね。励みになる読者さんは多いと思う。

貴重なお話をありがとうございました!

大木亜希子さん・佐野円香さん
大木 亜希子(おおき・あきこ)

1989年8月18日生まれ。千葉県出身。2005年、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』で女優デビュー。数々のドラマ・映画に出演した後、10年、アイドルグループ・SDN48のメンバーとして活動開始。12年に卒業。15年から、Webメディア『しらべぇ』編集部に入社。PR記事作成(企画~編集)を担当する。18年、フリーライターとして独立。著書に『アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア』(宝島社)、『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(祥伝社)がある
■Twitter:@akiko_twins/■Instagram:akiko_ohki/■note:https://note.com/a_chan
佐野円香(さの・まどか)

15歳から独学で写真を始め、2006年よりフォトグラファーとして活動開始。アシスタントを経て08年にフリーランスとして独立後、現在は女性のグラビアを始めポートレート撮影を中心に活動中。過去の雑誌やWEBでの連載は「週末モデル」、「OVER GIRL」、「工具みーつガール」、「今、東京でキミを撮る」、「ウィズマイガール」。13年、第61回朝日広告賞グランプリ受賞。現在は女性のグラビアを中心に『週刊プレイボーイ』(集英社)やアイドルカルチャー誌『OVERTURE』(徳間書店)など多数メディアで連載をもつ
■Twitter:@madoka_sa/■Instagram:sanomadoka_photo

取材・文/大木 亜希子 撮影/洞澤 佐智子(CROSSOVER) 編集/秋元祐香里・柴田捺美(ともに編集部)