仕事を頑張るほど、結婚が遠のく? 違和感を事業に変えた元全国トップMRの挑戦
「20代で結婚・出産し、育休から復帰したら、9時17時で帰れる働き方がしたい。そのためにもまずは3年、仕事を頑張ろう」
そんな人生を思い描き、武田薬品工業でMRとして働き始めた豊嶋千奈さん。
しかし、全国トップの営業成績を上げると、任される仕事はどんどん増えていく。気付けば、望んでいた暮らしとは反対に、仕事だけで毎日が埋まっていたという。
そのモヤモヤを、累計約1500の企業・団体に導入される事業へと変えたのが、豊嶋さんの立ち上げた『Aill goen(エール ゴエン)』だ。
特定の企業・団体に勤める独身者に、別の勤務先の相手を紹介し、出会った後の会話や関係づくりまでAIが支援する。そんな一風変わったサービスは、どのように生まれたのか。
仕事を頑張るほど、望んだ人生から遠ざかっていく——。そんな一人の働く女性の違和感が、多くの企業から求められるビジネスになるまでの道のりを聞いた。
株式会社Aill
代表取締役 豊嶋千奈さん
同志社大学法学部卒業後、武田薬品工業に入社。MRとして全国トップの営業成績を上げ、女性幹部候補に選ばれる。仕事と私生活の両立に悩んだ自身の経験をきっかけに、2016年に株式会社Aillを設立。出会いから会話、関係づくりまでをAIが支援する良縁アプリ『Aill goen』を開発し、企業の福利厚生として提供している
営業トップになった私の「ライフ」はどこへ?
私は新卒で武田薬品工業に入社し、MRとして働き始めました。
当時思い描いていたのは、20代で結婚・出産し、育休から復帰した後は、9時から17時で帰れる部署で働く人生です。今の私からは想像できないと、よく言われるんですけどね(笑)
ライフイベントで一度仕事を離れたとしても、会社から必要とされる人材でいたい。だからこそ、「最初の3年間はとにかく頑張ろう」と決めていました。
医師の皆さんに「薬のことは豊嶋に聞こう」と思っていただけるよう、昼間の面談内容を夜に振り返り、論文を読み込む。そんな日々の積み重ねが実を結び、入社3年目には全国トップの営業成績を上げ、その後、女性幹部候補にも選ばれました。
ところが、成果を出せば出すほど、仕事の量も難易度も上がっていく。気付けば、思い描いていたライフとは真逆の方向へ進んでいました。
仕事が嫌だったわけではありません。会社が好きで、医療に貢献できることにもやりがいを感じていた。だから、難しい仕事を任されると、また頑張ってしまうんですよね。
そうして気付けば、30歳目前。「私の私生活はどこに行ったんだろう」と思うようになって。上司に「このままでは私のライフに支障が出るので、仕事量を減らしたい」と漏らしたこともありました。
すると、お酒の席で冗談交じりに「お前は武田(薬品)と結婚すればいいじゃないか」と言われたんです。私も笑いながら、「そんな人生は嫌です。だったら会社を辞めますよ」と返しました。
でも、冗談のつもりで口にしたその言葉が、誰よりも自分自身に響いて。
武田薬品が大好きでも、私には「辞める」という選択肢がある。そんな当たり前のことに、そのとき初めて気付いたんです。
両立に悩んでいるのは自分だけじゃない
「辞める」という可能性が見えてから、まず確かめたかったのは、「キャリアとライフの両立に悩んでいるのは本当に自分だけなのか」ということでした。
そこで知人のつてを頼って、20~30代の独身女性と独身男性、各約70人に話を聞いたんです。すると返ってきたのは、「こんなはずじゃなかった」という声ばかり。
仕事も頑張りたい。けれど、結婚や子育ても諦めたくない。それなのに、気付けば仕事だけで毎日が埋まっている――。男女を問わず、同じ葛藤を抱えていたんですよね。
ちょうどその頃、私は会社から熊本への異動を命じられました。当時付き合っていた方とは遠距離になり、コミュニケーションが難しくなって、結局別れることに。仕事を頑張るほど望んでいたライフから遠ざかっていく現実を、改めて突き付けられたんですね。
仕事も私生活も大切にできる仕組みが、もっとあってもいいんじゃないか。それを痛いほど理解している私が、やるべきなのではないか。そう考えて、起業を決意しました。
まずテストとして取り組んだのが、仕事も私生活も大切にしたい人同士をつなぐことです。知り合いの男女10組を紹介してみたんですが、うまくいったのは、わずか1組でした。
みんな良い人たちなのに、なぜだろう。それぞれに話を聞くと、良かれと思ってしたことが相手に伝わっていなかったり、言い方やタイミングがずれていたりしたんです。
さらに聞いていくと、男女ともに「傷つきたくない」という気持ちが強いことも分かってきました。
出会いを用意するだけでは、関係は進まない。二人の会話を後押しする仕組みが必要だと考えた末に、「出会った後の会話まで支える良縁AIアプリ」の構想が生まれたのです。
全国トップ営業の経験が、恋愛AI開発の突破口に
退職後は家賃5万円のアパートに引っ越し、AIの研究者やエンジニアに協力を仰ぎながら、開発に取り掛かりました。
ただ、私はAIの専門家ではありません。最初は「餅は餅屋」だと専門家に任せていましたが、開発は失敗続き。お金をかけても、思うように動くものができなかったんです。
そこで私が現場に入って分かったのは、AIに学習させるべき「恋愛のデータ」が足りないことでした。恋愛中の会話は外に出にくいので、十分なデータを集めるのが難しかったのです。
では、AIに何を学ばせればいいんだろう。考え続けた末、ふと気付きました。「私、武田薬品であれだけ営業を頑張ってきたじゃん」って。
MR時代の私は、医師との面談を振り返り、出会ってから信頼関係が生まれるまでの過程を分析して言語化していました。
相手の心が動くには、どんな情報を、どのタイミングで伝えるのか。相手の考えを知るには、何を尋ねればいいのか。そのノウハウを恋愛に置き換え、AIの教師データとして活用してみたんです。
すると、相性の良い相手との出会いづくりはもちろん、話題や会うタイミングを助言する機能、相手の好感度アップをアシストするような機能の精度がどんどん上がっていって。
AIのチャットアシスト機能
AIは、何でも解決してくれる魔法の道具ではありません。人間が課題と解決までのプロセスを理解して初めて、力を発揮するもの。
専門家に任せるだけでは形にできなかったサービスが、自分の経験を掛け合わせたことで、ようやく動き始めました。
「会社が恋愛を支援するの?」門前払いから累計約1500社へ
次の課題は、完成したサービスをどう届けるかでした。
すでに市場には多くのマッチングアプリがある中で、個人向けに販売して、本当に使ってほしい人たちへ届けられるのか。そこで考えたのが、企業の福利厚生として導入してもらう方法です。
それに、私が得意なのは営業ですから。企業にとっての価値を整理して、話してみようと思いました。
結婚後も仕事を続けるには、パートナーの働き方や、家事・育児への考え方も大きく関わります。支え合える相手との出会いは、本人の仕事と私生活の両立だけでなく、社員に長く働いてほしい企業にとっても意味があると考えました。
とはいえ、最初は「なぜ会社が社員の恋愛を支援する必要があるのか」と、なかなか理解してもらえなくって。開発から企業への導入を進めるまでに、資金ショートも3度経験しています。
それでも営業を続け、新規事業に取り組む企業が集まる協議会で実証実験を実施。その実績をもとに、NTTグループへの導入につなげました。
企業にとっての価値を伝えられるようになるまでには2〜3年かかりましたが、今では累計約1500の企業・団体に導入いただいています。
2024年には東京商工会議所との業務提携も決まった
頑張ってきた仕事は、人生を選び直すときの武器になる
もちろん、ここまで来られたのは、自分の力だけではありません。お金が尽きて、何もお返しできない時期にも、応援してくださる方がいました。
「それでも、この課題を解決したい」と話す私に、「やりたいことを実現してくれ」と言ってくださる人たちがいる。その感謝を、事業の結果で返していきたいと思っています。
武田薬品で働いていた頃は、仕事を頑張るほど、思い描いていた暮らしから遠ざかっていくことに悩んでいました。でも、起業して壁にぶつかったとき、頼りになったのは、あの頃に積み重ねた経験だったんですよね。
会社を辞めても、それまで頑張って身に付けたものまで、なくなるわけではありません。私の場合は、全国トップを目指す中で培った営業力や、人との関係が深まる過程を分析してきた経験が、新しい事業の土台になりました。
もし今、仕事を頑張るほど、自分が望んでいた暮らしから遠ざかっているように感じている人がいたとしても、これまでの努力まで否定しなくていいと思います。
まずは、そのモヤモヤをなかったことにせず、「自分は本当は、どんな暮らしを望んでいるのか」を考えてみる。これまで積み重ねてきた経験は、次の道を選ぶときの力になり得る。私は、自分の経験からそう実感しています。
取材・文/宮﨑まきこ 編集/大室倫子(編集部)


